ナントモハヤ

明日のぼくを殺せ。昨日のきみを救うために。

2020年ののび太から1980年ののび太へ

■これは何?
映画ドラえもんのび太の新恐竜の感想


■長い、3行でまとめろ

新恐竜終盤まではすごく面白いよみんな見てね、クライマックスは雑だけど、子供にもおすすめ。

1行で終わったわガハハ


■諸注意

ドラえもん のび太の新恐竜を公開初日見た直後に書いています。
ネタバレに配慮しません。一切配慮しません。
いつものことですがこれは作品に対する考察などではなくドラえもんにかこつけた自分語りと泣き言と世迷い言です。
ドラえもんについての価値観は俺ことみなみちはやのものに準拠しています。あなたがどう感じどう考え、たとえそれが藤子F本人であろうと、ここでは俺のドラえもんが一番正しい。という前提で俺のドラえもんの話をします。これは俺の妄想とあなたの妄想の基準点をいちいち定義とか検証したりするのめんどくさいからです。お前のドラえもんを俺の庭に持ち込むなあとお前のお気持ち日記はお前の庭でやってくれ俺がしているように。といういつもの牽制です。事実誤認についてはお気軽に指摘してください。一回みただけなので「いやそれ映ってたよ」とかはあると思うしそういうのはありがたいんだけど、俺のドラえもんを断りもなくそっちからゆらがしに来ないでください。自己承認ごっこはお前の庭でやってくれ、俺もそうする。なんでこんなどーでもいいこと、わざわざ、言わなきゃいけないの? 


■前書き

まずゴーーーーーーーーーーーーーーーーーーールデンヘラ……の話は……まあ、もういいですよね。あいつの話は……。俺ももう飽きてるんで……。何度も何度も見る度に人生について考えざるを得ない。(何度もみるものではない)
でもこっちの話はしなきゃいけないんですよ。宝島の話。
俺はまず、ドラえもんを作った人たちの話というのはあまりしたくないんですよ。Fは神に等しく、俺たちはFを尊敬しているけれど、俺たちが目の前にあって救われたのは、何よりも大事でうれしくなくてずっといっしょにくらさないのはドラえもんという作品でありキャラクターじゃないですか。ドラえもんというものが作られたものであることは出来うる限り理性の許す限り認めたくない。そう、あと92年生き延びれば誕生の瞬間を見ることが出来るかもしれない。そういう夢見心地で幼稚な精神性で生きてきている。
だから、誰が作ったかとか、誰が監督でこのドラえもんはどの作画だとかそういう話をしたくないんですよ! 「ここ最近(15年くらい)ドラえもん声が軽いな、声帯ユニット変えたのかな」、とか、「今日のドラえもん柔らかいな、柔軟剤使ってるのかな?」とかね。そういう、そういうスタンスで俺はドラえもんを見ているんですよ。修行が足りないしもうねアラフォーだから「そういうこと」としてしか見れない。わかっている。今やドラえもんを作るために、売るために多大な人とカネが動いている。キャラクタービジネスの中でドラえもんは世界から見てもそれなりに大きめのパイなのだ。
規模がデカくなると「売らなければならない」パワーと「それに乗っかって売らなければならない」パワーが出てくるし、それがやっかいなところに入り込むと「よく知らないやつが話作りにしゃしゃりでてきてグッチャグチャになったり」「棒読みのセリフがキャラクターから発せられたり」するのかなーーーーーなんてことをね! 考えたくないんですよ! こういうどーでもいい、作品そのものに関係ないことは作品自体が文句を付けられないくらい完成されていれば、海原雄山ばりに「この映画をつくったのは誰だァ-―――――――――ーッ!」と膳をひっくり返さなくてもいいわけですからね。

■宝島の話

2年前の宝島は、それなりに良く出来ていたんですけど感情の扱いがクライマックスでメチャクチャになるし、のび太は突然エネルギービームに耐えたり垂直を駆け下りたりする超小学生の肉体と精神を兼ね備えるし、突然「一番大事な宝は地球だったんだ」と脳を健康食品で焼かれたユーチューバーみたいな事を脈絡なく言い出すし、子供達だけでケンカ→仲直り→嵐の中で船を立て直すという経過をやりたいが為だけに特に道具のサポートもなく、切羽詰まった状況の中優雅に帆船セーリングするし、父親と息子の関係を対比させようとしてうわっすべりな言葉を涙で飾らされるのび太の演説を観させられるし、しずかとローラの百合日常ライフ描写は最高だけど、時間移動しながら地球エネルギーと財宝を集める船長の手下になる海賊は一体何だったのかまったく説明ないし、ぶっ壊れた未来の地球についても具体的な時間までだしているのに未来人たるゲストキャラに丸投げしてハッピーエンド感だして他人事感の主人公達だし、そしてこういう細かい指摘も「まあ子供向けのアニメになにマジになってるの」って言われちゃうけど、でもこの作品の中でドラは通り抜けフープを使う時に「これはぼくのいる時代の材質で出来てないから使えない」といい未来人ゲストキャラの工夫で解決するんだけど、そういう一言を作中に入れられるというディテールへの造詣があるにもかかわらず、上記につらつら連ねたような部分をおそらく「画」とか「映え」の為に押し通す。そのスタイルが俺にとっては「ドラえもん」でやってはいけないことだと思っているわけなんですよ。

■で、同じスタッフが作った"新"恐竜というタイトルと新のび太というコピーについて

最初見たときどう思いました? 俺は血を吐きました。脳天から。
吹き出した血は雲となり血の雨を降らせました。やがてその怨念が固まって出来たのが奇跡の島です。そういう話じゃねえ。
のび太の恐竜。ではなく新恐竜。新のび太の恐竜。というタイトルは未だに使われていません。最初のリメイクはのび太の恐竜2006という他との類似性のないタイトル。この後はずっとリメイクは新のび太~~~というと言うことになっているので。「いままでのリメイクとは違うんだぜ」ということなのかな、あとピー助どこかいったみたいだからそこも「一新」ってことなのかな~。ってくらいですよね。タイトルはドラえもんにおいてそこまででもない。ただピー助を、ドラえもん大長編初作品であるがゆえに、そのアイコンとしても重要な意味を持つピー助。のび太の恐竜というタイトルをのび太の成長物語という大きなサーガとして成り立たせたのは彼の力にほかなりません。そのピー助を他の恐竜に変える、いや物語がそもそも相当変わっているのなら致し方ないのかもしれませんが、それならもっと「のび太白亜紀」とか「のび太の恐竜パーク」とかそういうんでもいいですよねわざわざ旧作を意識させるタイトルにしたんだから、こうして「ここから新しいドラえもんがはじまるのだ、お前らが今まで執着してきたFの幻影を取り払い、妄執を無かったことにしてやるそのためのキャッチコピーがこれだ!」ということにちがいありません。えっなんすか、キャッチコピーなんすか?

"ハロー、新のび太"

 ――――すべてののび太を、過去にする。
 えっこれ、そう、そういうことですよね。今までののび太は、今までののび太くんは、ドラえもんという作品は古かったものになるのだと、そういう決意表明で、否定にかかるってことなんですよね。被害妄想はいい加減にしろって? でも、でもこの人たち宝島でドラえもんっていうタイトルでドラえもんでなくてもいいような話をドラえもんの顔して作った人たちなんですよ。この人たちの作りたいドラえもんは、旧態依然としたドラえもんではない。少なくとも枷だと考えているんじゃないんですか。宝島からにじむエッセンスの数々が、不協和音が、「あーあ、これがドラえもんじゃなかったらな、でもドラえもんんだからドラえもんによせとくか」みたいな声に集約されてしまうじゃないですか。その人たちにによって、新恐竜で、俺たちが50年親しんできた――俺まだ40前だけど――のび太くんは、ドラえもんは、新しい時代に合わせて作り、替え、られるって、事じゃないですか! チーン! ブー!(鼻をかむ音) アー!

完全に、完全に見えてしまった。
メチャクチャにされるんだって、陵辱されるんだって、俺が3歳の時に見てからずっと育ててもらい、俺の中にはぐくんできたドラえもんという実体を持った世界観が、ゆっくり丁寧に解体とかリフォームとかされるんじゃなく、よくてどてっぱらにマキタのドリル当てられるか、いっそダイナマイトで全爆破されるのだと確信した。
感情的にCMの1シーンみたいなセリフを脈絡なく言わされ、格好良さげなことを肉体のくびきを理由なく解き放たれやらかし、道具によっても増幅されないそれぞれの行動が本来及ばないはずの大きな力を何故か揺り動かしてハッピーエンドをつかみ取り何に感動しているのかわからず泣きわめいて別れを惜しむ。感情を知らぬロボットが人間の脚本を解読し、。場面にあった対応をボリューム調節もわからぬままそのボリュームの意味もわからぬままめくらめっぽうに放ち続けるのだろう、

それが、お前なのだ、新しい野比のび太
そう育てたのはきみだ、ドラえもん

そう言われているに違いないのだ。
気が重い、見たくない、疫病が蔓延し公開が延期されてもその日は近づく。ミスチルの歌が、ドラえもんで育った俺という世代にストライクなあの歌が、もはや古いんじゃないかという歌詞デコ芸で映画の映像をバックにお前らの新しい誕生日だぞと脅かしてくる。ついでに隕石が降ってくる映像も見えてしまったのでこれ竜の騎士も一緒にトドメを刺される――リメイクの機会なく新恐竜と一緒にされてなかったことにされるーーなと予感した。
なあ桜井、新しい俺が産まれるのなら、今までの俺はどうなってしまうのだ。こわいよドラえもん、俺は別人になってしまうかもしれない。でものび太くん、虫コミ7巻で帰ってきたぼくが、その前までのぼくとどうして同じだと言い切れるんだ? ドラえもん、ほんとそういうのやめてくれ、俺は高卒なんだから。そのウソ800の話はまた今度にしようじゃないか。


■本編を見る前の話

映画館に早くついた。疫病の影響で席は一つ飛ばしなのでありがたい。後ろに小さな少年少女がいても、目の前のおじさんが大きくて画面が見えないということがない。俺も隣が同類でつい感情が高ぶった時に漏らしてしまう「アッ無理・・」「尊い・・」「待って」「あーケツかわいい」「ウソでしょ・・」「えっ」「なんで?」「いやおかしいでしょ」「マジなにこれ」「誰?」「どうして?」「誰がこんなことするの?」などのろくでもないつぶやきをお互いに聞かせてしまう事態を避けることができる。
最近ショップに並ぶドラグッズは本当にかわいい。ありがとう特にサンリオ。あと最近よくみる説教ドラのコマチョイスいいんだけど使われすぎて食傷気味になってきた。
シアターに入るけどなにか原作の短編をいくつかチョイスしたカラー小冊子をもらった。何種類かあるように見えたが外側が違うだけなのか、中身も違うのかはわからない。そしてしばらくして気づく「毎年欠かさずもらっていたあの正直邪魔なドラ人形がない」ないのである。アレか? プリキュアの振る奴と同じか? 頑張れプリキュア―! ってドラえもんにおいては応援するシーンなどないので別に大人にわたさない道理はないと思うが・・と辺りを見渡したが少年少女(ほぼ未就学児だが)(そりゃ夏休みいうて平日だからな)を見るも冊子のみもっておったのでやはりあの走ったり回転したりする、正直邪魔で気づくとカビが生えてたりするドラ人形は無くなったようだ。邪魔だったので無くなるのはいいんだけどああいう「ずっと続いてきていたもの」が無くなっていると、「新のび太」のキャッチが重くのしかかってくる。同時に思い浮かべるのは原作のび太の「きめた、もっとりっぱなひとになろう」という年に2,3度はする実行されない決心のことである。40近くになるとそういう元気もなくなってくる。若い皆さんにおかれましてはそういう衝動を恥ずかしがらず大切にしてほしいと思う。しかし同時に若者が頑張るのを軽口たたきながらバカにしてなんの実にもならない優越感を得たいという気持ちもあるな。などと考えていると劇場内は暗くなっていく。半分も埋まっていない新宿の劇場の中、開始前にそこかしこで騒いでいたお子様たちはみるみる静かになっていく。
ところで子供連れ家族も映画館スタッフが「密になるから席を一つ飛びにしてくれ」とお願いしていたがそもそも家族は一つの単位として考えるべきだとおもうし、その家族が占める範囲を広げると家族と他の人の距離が縮まるわけだし、そもそもこの時間に来ている子供は未就学児が多く席を暗闇のなかで一つ離すのは親にとっても周りにとってもあまり益がないナンセンスな要求なのではないかとかそういうことを思いました。もうどうでもいいか。
関係ないけど本編前の広告20分くらいやるのさすがに長すぎねえかと毎回思う。
スタンバイミードラ2の広告見て「ノットフォーミードラ2じゃん……」と呟いたりした。



■本編 中盤まで

OPがなくて卒倒する。

始まってしばらくの感想としては思いの外、完全体に近い出来だ。のび太の恐竜をベースに敷いて、恐竜の時代に行くまでの経過をスピーディーに処理しつつ、学術によるサポートも忘れない。いままでならば出木杉がやるべきであったろう役が大人の専門家になっていたりしたが、何度か出てくるその専門家も背景の説明や「恐竜の化石には進化のミッシングリンクがいくつもある」という重要な伏線を敷いていってくれる。物語の理解を深めさせようとする科学的な現実に基づいた情報はドラえもんという作品が科学のような顔をした魔法により異世界へスムーズに移行するための最重要パーツと言ってもいい。それがこうしてないがしろにされずさりげなく大事に組み込まれている。序盤舞台の恐竜博の建物がFミュまんまなのとかもファンを狙ったあざとい描写だ。嫌いじゃない。
やれば、やればできるじゃん! 
感動とともに劇は進む。ドラえもんはあたたかい目で恐竜に興味を持つのび太を見守る。その中に一瞬俺の嫌いな「あたたかい目2006」もまぎれている。そう、この塩梅ならいい。しつこくもない。大事なのは原作の、のび太の自発的な成長を見守るドラえもんのあたたかい目だからだ。わかっているじゃないか。いいぞ。タイムふろしきで卵の時間遡行と孵化を一緒にやってしまったのは雑すぎねえか、卵が元の状態になった後タイムふろしきが「チーン」と言って時間遡行が終わっている等の描写などなかったから、時間遡行しながらあたたまっていることになりはしないのかと思ったがそんなことをいちいち考えるのはめんどくさいオタクだけなのでテンポが重要なのである。わかる、なんでもかんでもオタクのいうことを聞かれてはたまらない。オタクの方など見ず子供達の方を向いてものを作ってほしい。そんな思いを鼻からスパゲティで流し込みました。
今作は鼻スパゲティではなく目ピーナッツだったが。目ピーナッツも既存のまま「のび太、恐竜見せるって約束だろ!?」をそのまま見せてそのまま恐竜のいる時代へと飛ぶ。テンポの鬼。ここまで日常と、わかりきった過程を見てわかるくらいに圧縮する、ということはこの作品はもっと描写したいものがあるはずなのだ。
この作品が描写したかったのは、まずこの前半においてはのび太くんの成長する姿、ひいては自分で孵した双子の恐竜との交流だ。双子恐竜が22世紀においても未知の種であること、双子といいつつ全く性格も特性も違うこと。どうも成長も遅く出来が悪いと比較でわかってしまう緑色の弟個体の方に、のび太は学校というコミュニティ内においてミソッカスな自分を重ね合わせ、共感し、ドラえもんの道具を借りながら育て、絆を深め、理解していく。双子にするのはこの比較のためであるし「ピー助」ではないという強い主張のためでもあっただろう。
ドラが「その石がもし本当に、ナウマン象のウンコではなく、恐竜の卵の化石だったとしたら、この現代に本来産まれなかった恐竜を蘇らせてしまうのは、様々な問題が生じるよ」と釘を刺すのも良い
この双子恐竜は元から、あとでドラえもんが道具でコントロールした恐竜は、作品内でデフォルメ、のび太たちと似たようなタッチで描写される。記号的ではあるが、他の恐竜がCGで描かれているためその区別はわかりやすい。双子恐竜は道具で何もコントロールをしていないのに、その状態なところに強いファンタジーというかご都合みを最後まで感じるのだが、まあこれはしょうがないことだろう。それにしたって恐竜っていうかポケモンっぽすぎるよなと最後まで思っていたが。
育ちすぎた彼らを仲良く5人で恐竜時代に戻しに行くときのタイムマシンの描写も、着いたときにドラえもんが探険衣装に着替えさせるときに「この時代はいまと酸素濃度も違う、環境が違うんだ、だからこの服を着て環境に適応してくれ」という一言もよい。何度でも言うがこの細かい実際には行けないけれど科学によりそうらしいことがわかっている情報を使った描写の積み重ねが大きなウソを本当のように見せ、銀幕に大きな夢を見せてくれる。それが俺たちが40年映画ドラえもんという冒険譚に期待してきた、初代のび太の恐竜から受け継がれてきた大事なポイントだと思うからだ。まあそれがない作品もまあありますけどォ~~~~~~~!
こういう古いオタクを喜ばせる小細工、あたし得意なんですと言わんばかりに要所要所でドラえもんは道具を使い、どこかで見たけど今風にバージョンアップしたような道具を適所で使い、恐竜時代を「のび太くんが見つけた新種であるから、22世紀に情報がないので、自分たちでその生息地を調べる」という冒険をしていく。理が通っていてワクワクしてしまうではないか。
情景の描写もすてきだ、最初タイムマシンの誤操作で目的の白亜紀ではなくジュラ紀に来てしまう。
生息している恐竜の種類でスネ夫が気づくのも、ジュラ紀から白亜紀に移動しなおした際に生息している植物も風景、空気感、生息する動植物、そういうものがちゃんとかき分けられている。もちろん、Fも当時それらを調べ、当時確からしかったものを描いたのだろう。その原作にこの40年分積み重なった遠い6600万年前や2億年前の「どうやらこうだったらしい」という知見が科学によって明らかになり、それがこのドラえもんという作品に様々な人の手によって反映されているのがわかるし、描かれた情景にドラえもん一行が「いる」という実感が増すのである。もしかしたらこれは2006年に本当はやりたかったことなのかもしれなかった。そうであるなら「新恐竜」とはあまりにも気の利いたタイトルにちがいないのだ。
続くシーンもCGの恐竜群に若干の違和感を覚えつつも、先に言ったようにそのCGの描写が恐竜そのものの生々しい恐怖を演出していることに気づいた。良く出来ている。考えられて作られている。のび太たちがのび太たちとしてのびのびと冒険をしているように楽しそうに描写されていく。ともにゆく双子の恐竜は愛らしく愛嬌があり、片方は一行を陽気にかきまわし片方はのび太に手を引かせて成長を促す。美しい構図だ。
旧作のオマージュと今作の軽妙さがおり混ざる白亜紀の光景が続いていき、特に何も起らぬ場面ですら楽しい。
俺はこのあたりでシャッポを脱ぐ準備をはじめた。ツイッターで「アー今作はもうね、宝島と同じだから最悪。むり、同じものが来る、のび太くんたちの顔をしてのび太くんではないものが中にはいったいびつなものが感情も表情もちぐはぐなまま三文芝居をして最後にみんなで泣いて終了する陵辱が始まるのだ。俺はそもそも君の名は。とかも俺の好きなものをあれだけ用意してどうして最後にああいう雑な扱いをしてすべてを台無しにするんだ。やだやだ」と言われも無い罵倒を繰り返していた。まだみてもいないのにだ。本当に恥ずかしい。勝ち負けではないがこの作品を正当に評価し、ごめんなさいをしなければならない。みんなにこの新しいドラえもんのび太がすばらしいことを知らしめなければならないと思っていた。

■過去からの刺客

ドラえもんでこういうことがあるとは正直、正直思わなかった。
のび太と弟竜が海に落ちた時に助けてくれるものがあった。海の中から来る首長竜の一団。ここは白亜紀の日本。
なるほど、ピー助と同種のフタバスズキリュウのび太を助けるのだろう、粋ではないか。しかし道具もなくのび太が卵から育てたという物語的要素があるわけでもない恐竜がのび太達を助けるはずがなかろう、何かの、偶然を――装っ――て――?
「えっ」
思わず声も漏れるよそんなの。マジピー助じゃん。
なんで?
いやそのですね、明確にそこまでフタバスズキリュウの群れはCGだったのに、のび太と弟竜を背に乗せて運んだのは、そのシルエットは、模様は、紛れもない
ピー助としか言えないじゃないですか。ピー助じゃん。
いや、わかるよ、うれしいよそういうファンサービス。一瞬は、わーピー助が助けてくれたんだ! 恐竜/恐竜2006は新恐竜によって無かったことになった話ではなく、のび太くんはピー助を卵から育てていて、この新恐竜は「それ以後」の時間軸の話なんだね~~~~~~~~~
感動~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~。

ン、
なわけあるかァーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーッ!?

いや、いいよ、描写は、すごいいいよ、いちいちピー助がピュイピュイいったりしないし、スッときてスッと去っているの、元カレのところに荷物取りに来た元カノがたまたま高熱出して人事不省で寝込んでいるところに氷嚢つくっておかゆつくって去って行くみたいな感じじゃんみたいな、これ両方女の方がよくない? ちょっとお前話ややこしくなるから黙ってろ。その場合元カノが来てたのを察するからダメ鈍感であることが必要だから人事不省になっているのは男でなくてはならない。はァ――――? 鈍感女と自分の気持ちを一歩引く女の関係性に、その力学がもたらす反発力と引力のゆらぎに想像力が至らないんですか? アアアアア! うるせえ!!!(脳内の百合厨とノマカプ厨を黙らせる)

ピー助ね、ピー助。ピー助はフタバスズキリュウね、多分オス。
ええとね。
ここまで見てきて、今作において、のび太くんたちは、はじめて白亜紀に来ているんですよ、ドラえもんごと記憶を消されてるとかでない限りは。
じゃあこのピー助、なんなの。
概念? 旧作を好きでピー助が消えたことを後でグダグダ言うであろう子供ではないめんどくせえオタクどもに対するケジメというか牽制として存在しているの? それはさ、そういう動機でいるんだとしても、さ。作る方や見る方の力学の問題で、作品内の問題じゃないじゃん? なんでいるのこいつ・・。
少なくともこいつ、今作ののび太が育てたピー助ではありえないんだよ、ピー助を育てて、白亜紀に戻してあの別れをしたあとに、また「恐竜の卵の化石をタイムふろしきで~」という同じルートを新鮮な気持ちで通れるはずがない。
ああ、確かにドラは冒頭、旧作とちがい「その化石が本当に恐竜である可能性」に寄り添っていた。
そうなると、俺は考えなければならなくなってしまう。
今までドラ映画におけるのび太たちの連続性については意図的に無視してきた。原作の中でドラが「いままでぼくがついていって危ない目にあわせたことあるか?」に対するのび太の回想の「しょっちゅうじゃないか!」の中に過去の冒険が思い出されたことはあるし、短編の中で日本誕生の情景をスケッチブックに描いて「これはこの前行った七万年前の日本」と言った事もある。これだけの数をすべての同じのび太が体験していることについて真面目に考えなくてはならなくなる。のび太の小学4年生と5年生の夏休みはいくらあってもたりない(すべての冒険の舞台が夏休みではないが)
のび太の分岐と、順序と、並行世界と、ループについての可能性を考えなくてはならなくなるのだ。

ええ……。
やだよそんなんめんどくせえ……。
そういうことを考えなくていいように、のび太はどんな冒険で行った先でも、仲良くなったゲストと再度会うような描写はなかったのだ。せいぜい上記の例やドラのびが「この前~~の世界に行ったことあったろ」のようなことを匂わすにすぎない。どっちが先かとか、こののび太はこの経験があってこういうことを言うのかとか考えなくていいんだよ。短編ですら、たま~~~に学年誌で月が続いた作品で登場人物が重複しているようなことがある程度なのだ。あとは雲の王国に短編のキャラ(キー坊、ドンジャラ村のみなさん)が出てきたりする。そういうゆるいつながりだ。ドラえもんはどこから読んでも、どこで離れても後腐れがない。そのはずの作品であるのに。


以上のような脳内会議を次のシーンに移行するまでの2秒程度で開催してひとしきり脳がくたくたになったあと俺はこの件について保留することにした。
このピー助に間違いなさそうな何かをとりあえず「なんかよくわからんけど助けてくれたピー助ではないもしかしたら前世がフタバスズキリュウのび太を他人と思えなかったそういうもの」という妥協で抑える事にした。
このピー助(そっくりさん)は、今劇中において、旧作を知る人にとってのファンサービスに間違いないのだが、俺にとってはどうしようもなく思考を揺さぶる毒になってしまった。
なによりリメイク元の映画作品から持ってこられたゲストキャラに、のび太である俺は、前世の記憶を持つのび太である俺はどんな顔をしてこいつを見ればいいんだ。俺は、きみとの思い出があるのに、今別の双子竜とイッチャコラしてるんだぞってなる。最悪じゃん。そんなの。
いやいやまて「新恐竜、新のび太」なのだと口の中で唱える。
そうだ、別物なのだ。でも別物ならなぜ、ピー助(仮名)はのび太(新)を助けるのだ。似てるから? マジで? 別の世界に存在するのび太(旧)とのび太(新)はそれぞれ繋がっている白亜紀に恐竜を育てて戻しにきたってこと? 

はいはい! 保留! 考えても無駄! 死ぬまで考えてろオタク!


■終盤の不穏

双子恐竜と同種の生息地に近づく頃から、怪しげなサルが周りを徘徊するようになる。その正体はキムタク声のTP隊員なのだが。まあこれがね出てきたときはコウモリに変身したり思わせぶりなことを言ったりでけっこういいんですよ。おっ悪い奴でてきた! というような期待が高まるじゃないですか。そうこうしているうちにジャイスネが捕まるのもよい、良いが・・人間であることを明かした途端一気に怖さがなくなってしまった。
このあたりから急に今までよかった塩梅が、おそらく張り巡らされていた数多の細かい伏線やあるべき展開が回収されずにスルーされていくような錯覚に陥る。終わりまでずっとだ。
のび太たち全員に配ったスカーフとブローチ(スカーフを広げると地図、ブローチは発信器)というとてもワクワクする道具を出しておいて、PTが分散しているのに活用しきっていない(のび太を探したり、遠隔探査ロボの報告をまとめるのには使っているがジャイスネを探すのに使わない)スカーフ不使用の極めつけは双子竜にも付けているのに、弟竜がスネていなくなった際にそれを探すための道具がスカーフではなくたずねびとステッキだったりと、いままであんなに丁寧だったなにもかもがどんどん雑になってきます。
ドラえもんのポケットから出す道具がうまく出ず謎のイナゴ佃煮缶ばかりがでてくる現象の繰り返しがやたらとくどい(この缶はスモールライトを出そうとするときに出るので、イナゴ缶を出そうとしてスモールライトを出すという回収がされることはされるが、イナゴ缶がやたらでてくるわりにこの缶自体の存在意義がわからない。序盤の双子竜にやる餌になやんでいるときにこれをドラが大量に仕入れてきたというような描写でもあれば納得いくのだが、急につまらない繰り返しギャグを押しつけられたようになって混乱する)

話をすすめて
双子竜の故郷に着いた。着いたよ。この故郷はのび太が双子竜を育てたドラえもんの道具である伸縮自在のジオラマを寄ったジュラ紀で落としてはずみでスイッチが入り大きくなったものだったんですね。「聖域はドラえもんが作ったんだ!」という竜の騎士の伏線が回収されます。されねえ。ここにあったジャングルジムにのび太が双子竜の成長をマーカーして、自分の背丈もマーカーしていたことで判明するのがいいじゃないですか、「のび太」の最後の点を打つところをカメラに見せず、それが再度巨大化して白亜紀でお目見えするときに「犬」と書いていたのがわかる。うまいな~~~なんて思っちゃう。双子竜の種族がどうしてここをねぐらにしたのかは説明はなかったですけどね。
さて合流した双子竜、姉竜は能力が高いし飛べる陽キャだから順応するけど、弟竜は飛べないし背も低いから群れに受け容れられない。のび太は弟竜を飛べるようにしてやりたいと訓練を始める。いいですね。王道だけど、自分を重ね合わせて、逆上がりの練習をしてみたり、怒ってしまって自己嫌悪しているところを、しずかに「人格を肯定」してもらったりしてジュブナイル~~~って感じがする。でもここの尺ちょっと長いよね、今作これ、敵がいないな? キムタク声も多分持ってるアイテム的に登場時からTPだろうなとわかってしまうので、うすうすラスボス不在、すると予告の隕石とそれに付随する自然災害がラスボスと言うことになります。

ポンコツクライマックスとポンコツパラドックスについて

隕石が落ちてくるのも、はるか地球の裏側に落ちていくのも、その後の衝撃派も、ドラの破滅の説明もこの辺はすごくいいです。絶望、絶滅する種の時期に運悪く自分たちが幸せにしたい双子竜をつれてきてしまったという流れはとてもいいですね。

舞台立てはいいとしていろんなものがポンコツです。
ドラ「あっ6600万年前だから近からず隕石落ちてくるじゃん。日本から見たら地球の裏側だけど。どうして気づかなかったんだろう」
6600万年前といっても幅広いわけだから「まさか、この時期にくるとは思わなかった。ちゃんと調べなかったぼくがわるいんだ」ならいいんだけど「どうして気づかなかったんだろう」は自分を責める言葉としては的外れ。わざとか? まあこんなのはいいでしょ

のび太が隕石を止めようとして、ドラえもんの道具を漁ったりするところに、キムタクTPとTPボスが出てきて「時間を改変するのはやめろ~~!」とのび太の時間改変を拘束して止める。

「えっ」
 
そこで出ちゃうんだ、タイムパトロール

で藤子FファンならおなじみのTPぼんで濫用される「対象者が歴史に深くかかわる行為をする場合、TPが余計な干渉しないようにするマーカー」をかざすとのび太と弟竜がビッカビカに反応するので「よっしゃ解放! きみたち好きにしたまえ! 後数時間で隕石衝突の熱波が到達するけどなガハハ!」ってなるんですが・・

タイムパトロールってドラ映画では今までのび太達がラスボスに到達したところで話のシメにでてきて後始末して去って行く感じだったからまあいいかで済ませてこられたんですけど、ここででてこられて、こういうことされると
この話でもう明確に、旧作の時代からタイムパラドクスとして存在していた
「産まれなかったはずの恐竜を、未来で孵して、育てて、元の時代に返す行為」が
ジュラ紀にその種が育つに適したフィールドを落として、白亜紀にその種が繁栄する土地を作った、21世紀の人間が、22世紀の道具で」
これが歴史に影響を及ぼさない行為なのか?
 という当然の疑問がわきますよね。
今まで触れたくなかったけど、誰しもが抱く疑問「ドラえもん一行がなぜタイムパトロールからおめこぼしを受けているのか」という疑問に「タイムパトロールは該当時間旅行者を、特定の歴史改変可能性の高いポイントで監視していて、歴史に改変を及ぼそうとする人間の行動を制限している」(こののび太の新恐竜が、こののび太たちの最初の冒険であるのなら)「一行の中で特にのび太はその行為を制限することで正しい歴史が変わってしまうから、タイムパトロールの干渉を受けない」→今後のび太達の冒険はタイムパトロールからフリーパス。やったね!

――であるように取れるかもしれません。頭の良い最高の解決法?

――そうか?

冒頭で恐竜博士がのび太達に言っていた伏線が回収されます「まだ発見されていない化石はいっぱいある、恐竜から鳥類に変化する過程の化石というのがあるはずなんだよ」とそう
うまく飛べない弟竜がのび太を助けたくて「はばたき」を覚える。
この弟竜から「鳥類」に進化するミッシングリンクが埋まるんだ!
なるほど、いいです、うまい伏線の回収とカタルシスです。これ自体は。

もう一度。
「産まれなかったはずの恐竜を」
「未来で孵して、育てて」
「元の時代に返し、そこで」
「未来人ののび太を助けるために、めざめた羽ばたき運動が、鳥類進化へのはしりとなる」
「だから、のび太と弟竜に介入すると歴史が変わるので」

 ドラえもん世界では、いつものことじゃんかと言われてしまいそうですが
 このはばたきを覚えて鳥類になる弟竜が産まれてなかった世界ではまだ、鳥類は存在してないということになるでしょ。その後の世界の修正力で鳥類が別のルートで生まれて修正されるなら、TPのカードは光らない(のび太達の行動を制限しても、鳥類は別のルートで産まれる)と言うことになるでしょ。
 百歩ゆずって、まあその矛盾とループのことも含めてそういうもんだとしましょう。
(っていうか俺は本来、ドラえもんタイムパラドックスについては、深く考えないのが正しいというスタンスんなんですけど、ここに来て急に、劇のど真ん中でTP出してこられたのでこの件についてある程度の考えを打ち出して自分の思考の柱にせねばならず、この作品での軽々なTPの使い方に節操がなさ過ぎると心底怒りを覚えています)
 じゃあ少なくとも、鳥類の誕生のフラグを立ておわったのび太は、この後タイムパトロールに対して全行為がパスになるわけではない。外作品でのタイムパトロールから不干渉の理由にはならないと考えます。

つかれてきた。
そもそもあのカードは、こういう絶滅の時とか、死ぬ運命の動物や人物を歴史に影響が無い限りは助けていいかどうか判断するためのカードじゃんよ。この恐竜絶滅の時にドラたちは、島に恐竜たちを移動させるんだけど、その方法が雑なのもさることながら、このカードを使っている形跡もない。
なんでタイムパトロール一派はそれを黙ってみてるの? しごとして?
そこで「この恐竜はつれてって大丈夫だ」っていう判断を、いるなら、そこにいるならして欲しい。
そういうのをしないなら、TPぼんにでてくるTPとは別の存在なのかもしれないけど
なんもしないならしないで、しゃしゃりでてきて藪をつついてタイムパラドクスを出さないで欲しいんですよね。


あとはこののび太にピンチをもたらす謎の巨大翼竜がCGでは描かれておらず、恐竜のカテゴリなのか、何かの道具で産まれたのか、話の都合で不意に置かれた雑な動く障害物なのかわからないままのび太と弟竜を襲うので脳が混乱します。この熱波だと迫力ないので用意された雑ボスに吊されたのび太を飛んで助けようとする弟竜のところも同じシーンが続いて間延びして「もうわかったからさっさと飛んでくれ」と思わされるし、のび太はテレパシー使って語りかけるし(距離的に)いままでためてあった貯金箱の底が抜けて「あーあーはやく終わってくれ~~~~」という気持ちになってしまう。そういう気持ちにさせないでくれ。ドラえもんが急に画面の方向いて「画面の前のみんなも、のび太くんたちを応援して!」っていってくれた方がいくぶんマシというものだった。
こののび太がピンチで白亜紀の日本に迫る隕石衝突による熱波を前に
タイムパトロールボスが「もう時間ないいこう」
キムタクが「もうちょっと」
という会話を3,4回繰り返してタイムパトロール手出しできないのはいいけどだったら黙ってたらいいじゃん、それとも俺が把握してないだけで何か中の人のネタなのか? などとイラついたりする点もどうにかならんかったのかな。という気持ちになります。


■タイムパトロールが存在する意義とピー助という時空の迷子について

 この二つの、この作品におけるあからさまに異常なファクターを
(ちなみにピー助(仮)は熱波後に生き残るのび太島の結界の中にもいます)
 ジュラ紀にいった時にパラレルワールドに混線してるとか
 ループとか
 ループにみせかけて一本道だとかなんかもういろいろあるとおもうんですけど
 こういうのはもう・・あとで、なにも考えることなくなってからやることじゃないですか。
 ほかに置いておきたかったのに、なんで、なんで出してしまったんですか。こんな雑な勢いでもどうにかなってないクライマックスに同じ言葉を繰り返すバグったタイムパトロール隊員置いて、中盤までの思わせぶりな態度や、変身能力はなんだったんだよ。もーさー。

かっこいいオチとかもうないです。もういい。もうたくさん。こんな気持ちになるのならみなみちはやでいたくなかった。終盤までホントによかったので、すごくよかったので、なんで最後にこういう配慮のない乱暴な近視眼的な、どうして今までの歴史の中でそれをやってこなかったのか理解せずにそれをつかってしまうのか、いやわかってて使っているのかもしれないが・・まあもう・・俺は正しい客じゃないのでいいですもうもういい。こんなところまで読んでるひとはいないだろうし、読んでるひとも俺が文句言っているメインのところに共感出来ないと思うんですよ。

ドラえもんタイムパラドックスあって何で悪いの。
同じ白亜紀舞台なんだからピー助が出てきて何で悪いの。うれしいじゃんまたあえて。


違う、違うんだよ。
それでいいのかもしれないけど、そうじゃないんだよ。俺は。
気にした俺の負けなんだよ。
期待させられてしまった俺の負けです。
作品の鑑賞に勝ちも負けもあるかよ。
俺は自分に負けたんです。楽しむことを何よりも優先すべきなのにそうできなかった。
老いかもしれないし俺の性格が悪いからかもしれないし、この話は終わりです。
もうドラえもんと一緒にくらしませーん!





■来年

ウワァーーーーーーーーーー! 
絶対来ないと思ってた宇宙小戦争だァ―――――――――――――――ッ! 
いいの? 表現的に!? 

はー主題歌が少年期じゃない宇宙小戦争なんか見たくない~とか許せない~とか言う奴がいっぱいでるんだろうな~~~楽しみ~~~~(そこなの)

はー生きよう、来年まで生きよう。