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ナントモハヤ

明日のぼくを殺せ。昨日のきみを救うために。

新・日本誕生に見るドラえもんという物語の終焉

アニメ ドラ 映画
免責・前書き・世迷い言・続きを読む置き場

 評判のいい作品に一見逆張りdisぽいタイトルをつけてviewを増やすキッタネエやり口だ――――――――ッ! 
 他の作品ならいざ知らずこれでそれをやろうとはふてえ野郎だ殺せ―――――――――ッ! 
 指ィ詰めて頭丸めろ――――――――!
 ついでに青く塗れ―――――!

 ああ、ドラえもんってそういう……。
 

 というわけでタイトルは釣りでぇ―す! ドラえもんは永遠!! 永遠です!!!!
 
 もうねー!

 なァ――――――――――――――――にが、
ガルパンはいいぞ」
 だ!

(いやすごいよかったですよ)
(そういう話をしてるんじゃねえ、話の枕は勢いが大事なんだ!)

 俺もさー、いっちゃうもんね――――――――!!!!


ドラえもんはいいぞ!」

ファー! やすっぽいことば! しびれちゃう!!!


 で、さあ、もうさあ、もうこんなさあ、安っぽいエントリとかさあ意味ないと思わない? たとえばさあ、失敗した料理とかを「どうして、おいしく作れなかったのか」「なぜクソが料理のフリして食卓に上がってるのか」「なぜ俺の口からカブトムシの臭いがするのか」とかね、考えたりするのは我々未来ある人間ですから、まあ建設的かもしれないなあって思うわけですよ、もちろんカブトムシの形をしたクソにはほとんど意味はないですよ「いままで俺はなんておいしいものを食べてきたんだ!」ってそんなのありがたみわかり機でももってこいって話ですよ「ドラえもん」って言いながらボタンを押すと緩慢な自殺がはじまるわけですよ。自殺かなあ、ゴウモンじゃねえかなそれ。
何が言いたいのかというと、うまい料理を切り分けたり分解したり「どんあ調味料つかってるのかな~? ン? オジチャンにそのスカートめくって見せてごらん……?」みたいな料理が冷めるような振る舞いはクソダセェって話ですよ! だからこんなもの読んでないでさっさと劇場に足を運んでくださいという話です。ここにもネットにもお前の過去にも劇場で感じるより最高の日本誕生はないんだよ! そうだろ松!

 公開から一週間経って、もう一回見ようと思ってるけど、頸椎ヘルニアが痛いのと、極セフィロトの練習で忙しくて見に行ってないんだよね。でも、この土日で是非みんなにみてほしいし、練習にも身が入らないし、もう誰も読まなくてもいいから、俺が今作に対して抱いたものの断片をはき出しておきたい。ネトゲばっかりしてたから文章の書き方なんてすっかりわすれちまったからな。前も別にろくすっぽかいてたわけじゃねえけどな。
 もうねえ、許せないものとかじゃなくていい物に対しての記事とかそんなに量書けないとおもうんだよね。やっぱりそんなに書けなかった。書いてると泣いちゃうし情緒的になるもの。まあいつもドラえもんについて書くとポエムになりますけどね。いやいや人間のかくものはだいたいポエムじゃねえかな? だよね!
 
 もう最初の数行読んで「長い」「読みにくい」「ドラえもんに拘泥するオッサン気持ち悪い」みたいなのは帰ったかな? くるほどブクマ付かないと悲しいが今回付かない気がするな。たいしたこと書いてないからな。読まなくていいしもうなんでもいいから新日本誕生見てね! この土日に見なかったら一週間損してるんですよ、逆に言うといまなら一週間の損で済むの、これってすごいことなの、いまからいうのは本当は教えたくないんだけど私の知り合いの社長が言ってたんだけど人生におい




 このエントリは2016年3/5公開
ドラえもん 新・のび太の日本誕生」
 の私的な感想をもうすぐ35のオッサンがポエミーに垂れ流すエントリです。よろしくね。

■過去と比較しないと作品を見ることの出来ない老人の独り言

 俺さあ、旧作の日本誕生がそんなにすごく好きってわけでもないんですよ。かといって思い入れがないわけでもない。この中期ドラは絵もしっかりしてるし実に安心して見ていられる。ただ子供心になんか腑に落ちなかったり、消化不良の箇所がけっこうあったし、原作をあとから読んだ時に「どうしてこの部分をスポイルしちゃったのかな?」って思う部分があったしで「歴代ドラえもんの中で一番売れてる!」みたいな看板を見る度に「これがドラえもん映画の金字塔!」みたいに言われてる気がして、俺の推しのアイドルが一位じゃねえ! みたいな煩悶を「日本誕生」というタイトルには抱いておったのです。

 特にブログには書かなかったけれど一昨年の新大魔境が正直これ最高のリメイクでしてね。これで、オリジナル方面に行ったリメイクで、パラレルとして納得できる名作となった「新・鉄人兵団」。完全オリジナルで今あるやさしいドラえもんの冒険ではない活劇の世界を開き大成功した「ひみつ道具博物館」。原作を完全に尊重し、その上で足りてない部分を補完した「新・大魔境」。そもそも物語として成り立ってないので今後これより下は出ないので安心していいと思える「ゴールデンヘラクレスオオカブト」。ここまで出そろっていればもはや、想像の枠内から逸脱するような作品は出てこないと正直なところ考えていました。

 実際、去年の「スペースヒーローズ」は、オリジナルとしてそれなりに楽しかったし、大筋はそんなにおかしくないし、切って貼っての継ぎの跡は見えるけれど、そんなに悪いものでもない。でもオチのところで、それまで積み重ねてきたいい部分が、それまでごまかしてきた悪い部分によって台無しにされてしまって、のび太くんの成長も、彼らが見た世界そのものも、全部が安っぽくなってしまって残念なものでした。
それでも謎のゴールドクロスを集めて最終的に説明もなんにもない「人魚」とか、唐突にジブリごっこはじめて破綻する「緑の巨人伝」とか、映画事故の例として辞書に載っている「例のカブトムシ」よりは格段に頭に入ってくる物語だったんですよね。

 これはね、新・日本誕生の出来とか以前に、いい年したオッサンが毎年花粉と同じ頃にやってくるドラえもんという熱病をね、どうやって受け容れるかという話なんですよ。毎年形がちがうわけで、それはそれでだいたいにおいて「今年のドラえもん」なわけですよ「俺のドラえもん」でなくとも。いや「俺のドラえもん」なんてのは今までもこれからもどこにも存在しはしないんですけどね。インフルエンザかよ。似たようなもんなんですよ、最悪死ぬ。死にたくないドラえもんと一緒に暮らしたい。
 では、最悪死なない為にはどうすればいいか。「もしかしたらギガゾンビがブリキの迷宮のナポギストラーの最期「イートマキマキ」よろしくウンタカダンス踊りながら脈略もなく『ツチダマンモス!』とか叫びながらタイムパトロールに拘引されていくラストシーンに改変されていたりないだろうか、あげくオッパッピーとかさけばされたりしねえだろうか」「仮面の下が出木杉の子孫だったりしないだろうか」「クラヤミ族首領ジャイアンのママそっくりの顔になってておいかけまわされるジャイアンをみてみんなでゲラゲラ笑う」みたいな悪夢のごとき改変(こういう「さぞおもしろかろう?」みたいな改変がもしされた場合、うまくやってくれるならいいんだけど、たいていうまくいかずにものすごく浮くし冷める結果になる)のことを封切りが近づくほどに毎晩のように想像し、嗚咽と共に枕を濡らす午前三時。重ねて言うけど三十代半ばのオッサンです。こんなおとなになるなんて思ってなかったよドラえもん……。

■序盤を見て杞憂だったことに噎ぶわたくし

 新・日本誕生封切りデイ。夜勤明けのくたびれたオッサンが未就学児~小学生とその保護者の群れの中、ど真ん中の前の方の席に陣取って小刻みに震えながら映画がはじまるのを待っている様はだいぶ犯罪じみているがいたしかたない。隣の少年が親御さんにドラえもんの知識を披露する度に「そういう解釈もあるが少年俺はそうとらえないなグフフ」とか小声でつぶやくキモさも完備。
 開幕。
 舞台は七万年前の中国大陸のどこか、今で言う和県(ホーシェン)。南京の近く。だいぶかわいらしいククルが銀幕に現れる。石けんのにおいがしそうなこの感じ、全身からセックスアピールがあふれており、もう大魔境のペコといい、最近の大長編ドラえもんは特殊性癖のデパートかよって感じである。ぜひこの映画を観覧した若き視聴者たちにおかれましてはまだ灯の点らぬ青き性欲に知らず刻まれた傷を育てていってほしいと願っております。正直ククルが全編にわたってエロい。こいつのせいでセックスアピールの権化、思春期の門番として右に出るものなく聳え立ってきた源静香の座を揺るがす勢い。ペコといい新ドラはアブノーマルな青い性の発掘に余念がなさすぎやしませんかね。旧作ではまあそれこそモブに毛が生えたような感じだったけどもうヤんバい。とかおもってたら時空乱流に引きずり込まれていく原始ショタ。泣き顔とか絶望顔とかもういちいち嗜虐心をそそる。たまらん。あと見えそうで見えないぱんつはいてないチラリズムまで完備。2016年「おれ男の子だよ?」と言わせたいキャラ第一位。
 旧作ではここで唐突に例の「ドラえもーん!」ののび太の声がはいって主題歌入るんだけど、今作はまだ! まだ歌は入らない! もう名作確定。わかってる。俺はわかってるお前をわかってやれるぞ! もう震えが来て「ファー」とか声がでてしまう。隣に座っている推定男子五歳がポップコーンを食べる手を止めて俺の方をいぶかしげに伺う。わかってる。こんな前のど真ん中で夜勤明け無精髭のオッサンがドラえもん初回を見てファーファーうめいてる姿に畏怖を覚えるのはよくわかる。だが俺はただドラえもんを観に来たいわば戦友のようなものなので通報したりしないでほしい。的主張を威圧に込めて返す。っていうか画面に集中させて欲しい。
 画面は現代。毎度0点を取ったのび太が玉子に叱られている。裏返すと落書きがあって「空欄もあるのになぜこんな落書きをするのか」と玉子は叱り、その落書きを消す。「それはペガサスだもん」と弱く主張するのび太が、落書きを消されてしまったことにすごく傷つく。
 もうすごいでしょ? すごいよね? 俺はもう「ファー」が「ヒャー!!!!!!!」になりましたよ。震えた。このちょっとしたエピソード挟むだけで、のび太がこのあとペガドラコグリを創造する伏線になるし、のび太が家出をする理由が親にとってはとるにたらないことでも子供にとってすごく傷つくことなんだよという共感にもなるし! 答案というアイテムを出すことで、それがまわりまわってドラえもんのポケットに入りレスキューボトルににおいをかがせる時に使われるのも容易に想像できるわけじゃないですか!! そして現にそうなる!! しかも余計な主張はしないし自然! そうだよこれだよ名作確定~確定でござるぞケン一うじ~! もうここで全身を抱きしめて上下に揺れてたら頸椎ヘルニアが悪化してたら、玉子が後悔のような表情をうかべちゃったりしてもう! すげえ! 玉子をも掘り下げる気だこの作品!!!!!! 
 あとは序盤けっこう原作通りではあるんですけど、テンポがすっげえいい。ドラえもん旧作の映画ってご存じのように結構テンポがいいんですけど、さらにいい。それでいて無駄な情報で時間を喰わせない。台詞一個一個を必要かそうでないか判別させているし、圧縮できるところはこれでもかと圧縮していく。もう最高。ここでテンポをよくしているってことは! 大事なところをはしょらずに、さらに必要なものを追加するという意思のあらわれ! ああもういつ感情失禁してもいいようにオムツしてくればよかったんじゃないかなァ! 
 そう圧縮の過程で、旧作とでしゃべるセリフが同種のものでも、ほかのキャラがしゃべってることがいくつかある。スネ夫のび太の間でその現象がよくあったというか、かつてのび太が背負っていたキャラクターとスネ夫が背負っていたキャラクターの役割が時代を経るにつれてかぶってきていたり、交代していたりするなと感じてはいたんですけど、それをこういう細かいところでやってくれるの本当にすごい。たとえば、「日本と中国の間に日本海があるから、途中で困らない?」のところをスネ夫が疑問に思うのとか。ここは役割というより、スネ夫に細かいところに気がつくキャラという役割をいれておきたかったみたいなところあるのかなと思いますね。あと今回あんまりスネ夫見せ場ないからね。でもジャイアンと一緒にかっこいいところもっていったりしてるからね。ジャイスネシズは今回終盤でそれほど目立った役割を果たすわけではないんだけど、こうして日本誕生の最も楽しいところとも言える「7万年前の日本でゼロから自分たちの住む土地を作る」という楽しそうさ、ワクワクさ、自由っぽさの疑似体験部分をスポイルせずに、今の映像技術で見ることができる、これだけでも21世紀ありがとうって感じでしょう。そりゃあダイコンのカツ丼だって最高においしそうですよ。そういや執拗に毎回劇場版でうまそうな飯が描かれるわけだけど比較したサイトとかないんですかね、タケシのせいでカツ丼がやたらと多い。去年のグルメテーブルかけのカツ丼のが単品でみればうまそうな気がするんだけど、あの畑のダイコンわるとカツ丼がでてくる様は本当にワクワクするし本物の百倍はうまそうに見える。
 残念なところというわけでもないんだけど、ジャイスネがサイやワニに襲われたりしてたじゃないですが、旧作では。今作ではサイが野牛に、ワニがオオサンショウウオになってたんですよね。やっぱりヴュルム氷河期の日本にワニいなかったんじゃない? ってことなのかなとかは思うんだけど、オオサンショウウオって人おそうの? とかやっぱりワニに襲われるのとオオサンショウウオに襲われるのじゃ迫力が違うナーとか思ったりしました。やっぱりジャイアンがワニに襲われてこその初期大長編って感じはあるじゃない?(わからない)

■新日本誕生における家族の話

 スジを追いつつ感動をなぞるくだらない作業は序盤にとどめておいて、そろそろ新日本誕生のすごいところを脈絡なく語って行こうと思います。

 今作および新大魔境は監督が同じなせいもあるだろうけど(というか作ってる中の人の話はあんまりしたくない。あくまでそこにいるのはドラえもんのび太たちなのだから。まあでも今回はその前提を覆してあまりある感謝があるってことでひとつたのみます。それに加えて俺あんまり)、今ドラ映画全体を支配する感情のコントロールが効かず理路のはっきりしない涙や感情を垂れ流す似非情緒的雰囲気から脱している。
 というのはけっして表情豊かでないことはない。ほかの作品よりもよっぽどかれらの表情、行動、ほんの少しの言葉から読み取っていけることばかりだ。これこそがキャラクターが生きているということなのだなあとかしみじみしながら見ていた。言葉でいうと大人っぽいが、実際は「ウワア……! 生きてる!! 動いてる……!」などと口角に泡をブクブク立てながら見ている。
 
 たとえばタケシ、母ちゃんからの扱いに怒り俺は奴隷じゃねえんだと家出をする。人権意識の芽生えだ。ひとはその身に降りかかったときのみ、その大切さに気づくのだ。で、さんざん遊んだし一旦帰ろうよと言われ、引き下がるわけにはいかないと矜持を見せる今作のオリジナル反応。こういうところでさんざん頷かされるわけです、タケシは母の事を恐れているが嫌いなわけではない。そんなん見てりゃわかるっちゃわかることだし、今までドラえもんを見てきている少年少女も、ドラえもん世界の中でのび太とタケシの母はエキセントリックな子育てをしておりそれぞれの子供が反抗しているものの、それぞれが信頼をしており、また畏れていることを知っている。
 大仰に言ってはいるものの、よくある親子関係であると言えよう。
 それをわざわざ、他の部分を圧縮したり削ったりする中で強調することで、物語とキャラクターの骨がものすごい太くなる。
 タケシの場合は、母ちゃんに反抗し上の存在と対等であろうとすること。ほんと強いですよね。自分が奴隷かって思っちゃいないけどそうして交渉をしているわけですよね。イジメっこっぽい小ずるい交渉の仕方だ。ただ、さすが彼の母であるからしてそこはパワーで押さえ込み「そんな言葉はドレイみたいにはたらいてからいうことだよ」と切って捨てる。そしてタケシは家出するわけだけど、その後、物語のクライマックス周辺でドレイとして働かされるヒカリ族を見て「ドレイだけはゆるせねえ!」と奮起し真っ先に飛び出していく。原作にはなかったけど、おそらく原作でもそう言いたかったタケシの言葉が繋がってくる。
 なにが「だけは」なのかはともかく、そこは強調したかったわけですよねタケシは。そこでタケシはたぶんはじめて「ドレイみたいにはたらかされる」ことの衝撃を肌で知り、口に出すわけですよ。タケシが「そんなものをみせられてはドレイみたいにはたらいてるとかいっちまった俺の立場がねえ」と思ったのかどうかは定かではないし、自覚しちゃいないでしょう。
 何が言いたいかというとですね。原作の「おれはかーちゃんのドレイじゃないっつーの」という序盤の言葉と、終盤でヒカリ族がドレイみたいに働かされてるシーンを、新になった際に強くたてなおした「親子の絆」「受け継がれていくもの」という柱に沿って明確に繋げる為に、原作の大きな流れを殺さない「俺は家出をやめない、帰らないぜ」という「反抗」のちょっとしたオリジナルシーンと、「ドレイだけはゆるせねえ!」というちょっとした台詞だけで表面的にはほとんど済ませ、ナチュラルに最大限の効果をあげているところが、今作のすごいところなんです。

 そしてのび太と玉子の関係性。野比玉子というのび太の母は、ドラえもんという作品の中でもかなり重要な立ち位置を占めています。他のF作品でも、ドラえもん的ストレンジャーがやってくる家庭の家族はそれなりに物語の中に顔を出してきますが、玉子ほど頻繁に顔を出すわけではないし、主人公達の関係性に踏み込んでこない。玉子はもうご存じの通り道具を2Fの窓から捨てること多数、もしもボックスはゴミに出す(あんなもの無断でゴミにださねえだろ)、とにかくものを捨ててしまうことが大好き。あんなヒステリックな性格をしている玉子ですが、ドラえもん一話「未来の国からはるばると」ではゲロクソ甘い母親で、傷つくのび太に膝枕して「よしよしこわいゆめをみたのね」とか言ってます。
 甘くしてきた教育により息子がダメになったという反省からか、もしくはドラえもんという異物に対するヒステリックな拒否反応なのかわかりませんが、小言をいう母親になってしまったわけです。のびのび育ちたい息子は困っちゃいますね。とはいえのび太も玉子のことを嫌いなわけではない。ですが冒頭のような自分の行動を頭ごなしに理解されない行動をされてしまうとのび太だって家出したくなるというもの、この点理解してやんないドラえもんもちょっと冷たいかもしれない。
 で、今作のいいところは、繰り返しになりますけれど上記のようなちょっとした「のび太が母親に反抗するに足る理由」を、原作の柱に沿う形でそっと差し込んでくるし、その理由がちゃんとそれぞれのキャラクターの深みを増すようになっている。説得力がお互いに補強しあっておりそれでいてくどくなく、わかりやすい。新日本誕生における改変点はこの連続です。もちろん、上のセリフをただ挟んであるわけではない。映画をみれば一目瞭然ですが、ペガサスのきったねえ絵を消されたときののび太の母親に理解されない失望と悲しみとか、玉子が息子の心が離れてしまったことを察しつつ戸惑ったりする所作とか、また帰りが遅いのを心配する体とか、そういう「演技」が自然なのです。自然ということは、計算がないというわけではありません。
 のび太はこの劇中で自分が育てた幻想ペットたちに対して「自分がママ」であるといいます。自分がしてもらってきたことを、してもらてうれしかったことをきっとのび太は、ペットたちにしてあげようとしていて、その決意――にはまだ満たないだろう衝動がそう言わせたんだろうと思うシーンです。餌をあげたり、なつかれたり、ククルから昔飼っていた犬の話を聞いたり、そして一度別れて探している時に、ペットたちを心配するのび太はきっと、自分のママのことを思い返す。
 こうしたのび太とペットとの関係、玉子とペットの関係、ククルと犬の関係、ヒカリ族の長タヂカラとその妻と息子ククルの関係、タケシと母ちゃん、エンディングに出る族長になったククルとその妻と子供達の画、エンディングに流れる家出した子供達がその親たちの少し過大な期待に応えようとしているあたたかい雰囲気の画。
 ともすればうさんくさくなるようなこれらの関係は原作でももちろん存在し、描かれていたものもありますが、今作ではことのほか強調され、キャラクターを補強し、後述するカタルシスを盤石で自然なものにしています。
 
 この作品は、原作・日本誕生と、旧作・映画日本誕生を一度総分解し、そのパーツと新しいパーツを組み合わせたものでは決してない。それらすべてを、それらを見た観客がこの25年醸成してきた行間までもすべてを一度分解し、新しく設計図を組み直し、1からパーツを組み立てた完全なる新品なんですなあ。


■子守ロボ:ドラえもんの物語の終焉

 さて、クライマックス。
 
 旧作では歴史を改編する時間犯罪者ギガゾンビの陰謀を、ドラえもんは止めることができず、TP(タイムパトロール)の介入を受けてギガゾンビを拿捕することで解決することになります。結局のび太たちがオトナたちに対する反逆としての家出で始まった物語は、子供達の実質的な敗北、慈悲なきモラトリアムの強制的な終了で終わったと言えるんじゃないでしょうか。
 ひきかえ、今作は旧作と同様に22世紀の電撃石槍をして23世紀の最新式槍に負けた――ギガゾンビからすれば旧時代の「子守ロボ」にすぎない――ドラえもんが、旧いものの象徴たるククルの石ヤリをして厳然たる未来力の象徴として立ちはだかったギガゾンビの奢りを突き、打ち勝つ。という、「新」における象徴的シーンが待っております。ものすごいカタルシス。
 
 「新」におけるククルの活躍は今風の「キャラクターが立つ」のみでなく、また、のび太がペットたちを育てる愛着の補強にもとどまらず、終盤もかなりの目に見える活躍をしてくれます。
 
 
 ドラはギガゾンビに打ち勝ち「偽の歴史では、本物の歴史に勝てはしないんだ」激しい自己矛盾を含むこの言葉は、自らに向けられた言葉でもあったのではないでしょうか。なにせ自分自身が、目の前の敵の野望よりはるかにミニマムなものであるとはいえ、歴史を変えにきた、同じ立場の者にちがいないから。
 
 だがドラえもんは、自分の子守対象とその友人(そして彼らは等しくドラえもんの友人でもある)五人の少年少女を後ろに控えて先のセリフを放つ。
 
 このセリフが、ここまでに軽く述べてきた新における要素なしに放たれたのでは興ざめだったでしょう。このセリフには、ちゃんと、ドラえもんのび太たちのことを見守っていて、成長を見守っていて、自分自身も成長していて、ロボットのくせに自分でも感じちゃうところがあって、それでこそ吐ける言葉なんですから。
 
 ドラえもんが都合良く未来の道具でのび太をしずかの嫁にしてしまわないのは何故か、
 のび太に暴力を振るうジャイアンを消してしまわないのは何故か、
 スネ夫の富や立場を奪わないのは何故か、
 玉子の性格を温厚なものにしてやらないのは何故か、
 学校を吹き飛ばしてテストをなくしてしまわないのは何故か。
 
 後ろぐらいことなど何もない(というかこの際うしろぐらいエピソードのことは忘れておくくらいの都合の良さが俺たちには必要だと思う)(大人はきたないなあ)。本当の歴史を紡がなければ意味がなく、目の前の力強かった23世紀の石ヤリの如く負けてしまうのだと。それはぼくとて同じなのだと。ドラえもんの背中が言う。
 ギガゾンビに「子守ロボ」と呼ばれたドラえもんが見下ろす先には仮面を割られた素顔のギガゾンビがいて、後ろには守るべき子供達がいる。
 強く打ち勝てぬ暴力的な未来の象徴が今、膝をついている。
 ここで、ギガゾンビとはいったい何だったのか、という疑問が沸いてくる。
 giga-zombieであろうなというのがまあおおよそすぐ思いつくところだろうし、そうだろうなと思う。死より蘇りし巨人とかなんかそんなんだろう。イタい名前とも言える。
 隔離した時間軸、もしくはまるごと歴史を変えるという発想は、おそらくタイムマシンに触れた人ならば誰もが思いつくことだろう。けれど、それを実行に移せる技術力とモチベーションは並大抵のものではない。彼は歴史を救おうとして、歴史に――人間に裏切られ一度死んだ科学者なのかもしれない。
 もしかしたら、彼の居る23世紀に人類は歴史を石器時代から変えねばならないと思わせるほどの大きな過ちをひかえているのかもしれない――。
 こう、ギガゾンビを絶望した科学者として捉えると、似たような構図が大長編にいくつかあることが思い出される。鉄人・メカトピア最後の人間科学者。ひみ博のゲプラー博士。自滅したまたは封印されたロストテクノロジーの存在ということで考えれば魔境のバウワンコ一世が封印したテクノロジー、海底のポセイドン報復装置、アニマル惑星のニムゲとかもそれに相当するだろう。
 ドラえもんたちに相対してきた、もしかしたらこれから相対する"敵"たちのことが思い出される。

 彼がかりにそうだとしたら、
 ドラえもんは、どんな気持ちでギガゾンビと相対していたのだろうか。

 旧作の時は抱かなかった疑問だった。
 
 間違ってしまった歴史も、また歴史なのだ。
 ギガゾンビがやり直そうとした歴史は、ひとつ遡ればドラえもんがおり、また遡ればのび太たちがいる。ギガゾンビがしようとしていたことはそれらをまるごとなかったことにする行為に違いない。ドラえもんは断じて、個人として、子守ロボとして、彼らの今を守るために、未来を守るために彼を否定しなければならなかった。
 ともすれば自分の意義を否定しかねない言葉で。
 けれど、その場にいる一番近い「地球人」として、彼を生み出したのはドラえもんかもしれないのだ。
 そう都合良く、やり直すことはできないんだ。と、自らの手でそれをしに来たドラえもんの背中はきっと「だからぼくは、今きみと一緒に歩いてるんだ。それならきっと"正しい"歴史になるはずだから」そう言っていたんだと思う。そんな描写はないけれど、そう思いたくなった。
 
 
 
 原作で最後のコマのタイムテレビに映る成長したククル。新日本誕生では、さらに、そのあと結婚し子供と映るククルの姿もある。これは、ギガゾンビに実質的に打ち勝った強き歴史の象徴たるククルが脈々とその地に根付いていることにほかならない
 のび太たちはそれを見る。ペットを育てることでその片鱗をものび太は知った。その上でやっと、親が押し付けていたものの意味を知るのだ。だから、エンディングに流れる一枚絵は壮大な家出を終え、スッキリしたから親の言うことを聞いてやろうという刹那的な子供の目をしていない。ともすればあざとくなり浮いてしまう画も、寡黙ながら伝わってくる強いメッセージも、テレビでビビッドな色のシャツをきた芸能人が連呼するように上滑りをせず、穿ち疲れたオッサンの耳に染み渡ってきてしまう。
 満杯の新宿の映画館の中で、子供達は上映中ずっと静かにスクリーンをみていた。
 
 彼らに、そして、ドラえもんにいつかこの歴史が続くのだ。
 のび太にとっては、自分の子たるペガドラコグリのいる世界へ。ククルが、その子供が、その孫が、その孫の孫が、きっとそうして繋げてきたように。
 そうして、のび太くんたちが繋げていくように。ドラえもんのいる、すぐそこの未来へ。ギガゾンビが生まれてしまうかもしれない、さらなる未来へ。もしかしたらそうならない、不確かな未来へ。
 
 
 「のび太の日本誕生」は25年の月日を超え、この作品とドラえもんを愛したすべての怨念とも呼べる執着を吸収し、完全なものとなった。
 

 未来に生きる、のび太くんの物語として
 やがて去る、ドラえもんの物語として
 
 
 


 

 のび太くんたちがこの空の下にいる。


 ドラえもんは、きっと22世紀に、