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ナントモハヤ

明日のぼくを殺せ。昨日のきみを救うために。

ドラえもんが2013年の未来に帰ってきた話

 
 フ、フヒーッ! ジンジャーたんが未来の道具でニャンニャンされ開発され、未来的な汁をめくらめっぽうに垂れ流しながらも祖父の前では気丈を振る舞うウスくて濃くてページがところどころ貼り付いちゃうような本を、小生切に、切にキボンヌでござりますぞぉー! アジャヤラカモクレンッ! ウッ!

 
 よし、冗談と日本語のわからない奴は帰ったな?(辺りを見回しながら)
 

 2013年春公開映画「ドラえもん のび太のひみつ道具博物館(ミュージアム)」の感想にかこつけてドラえもんへの想いをダシに自分語りをする気色悪いエントリはじまるよ~。


 旧作の感想ともつかぬ殴り書きは旧はてダの方に若干あります。
 

 ※注意! 「ひみつ道具博物館」のネタバレばっかりです!

 

前提と去年までの話

 ゴールデンヘラクレスオオカブトの話を最初にしておかねばならない。

未来だったはずの21世紀が、現代になって間もなくのこと。

 愛されすぎて、だいぶくたびれてきたドラえもんが、新しい姿に変わった。新しいドラえもんは、あんまり「ドラえもん」っぽくなかったからぼくは落胆した。声も高すぎたし、なんだかツクリモノっぽく感じた。とはいえ、何十年も一緒にいた彼らが、姿形が新しくなったのだ。そこに変化があるのは当たり前だから受け入れようと思った。周りの人達は、どうせドラえもんのことなんか別にどうでもいいくせに、結構いろんな事を言っていたと思う。
 ぼくはドラえもんを好きだし、大人になった今ですらこんなに頼っているが、ドラえもんはそもそも(かつて自分たちがそうであったように)のび太くんたちのためにいるものだ。ぼくは三十路になってもまだのび太くんであることにしがみついているけれど、とっくにのび太くんではない。そんなことはわかっている。
 だが、TVシリーズのOPでその決心はさっそく揺らいだ。なんでぼくは歯を食いしばってドラえもんを観なくちゃならないんだとバカバカしくなった。結局OPが変わるまでの2年だかの間は、つらくてちゃんと観ることができなかった。
 もちろん、その変化は悪いことばかりではなかったし、なにより必然であった。以前の彼らはいかにもくたびれていた。長い冒険の時に顕著で古くさくて大してつまらなくもないが面白くもない、古い画面と新しい画面がせめぎ合って歪な空間がダラダラと垂れ流されるだけ。娯楽にも伝統芸能にもサザエさんにもなれずに腐り行くよりは新しくなっているほうがいかにもマシだと思えた。
 恐竜2006で描かれたのは美しい世界だった。元祖の恐竜の画面は今の時代で「映画」というイメージとは程遠いショボく(それでももちろんぼくはいま観たって楽しい)、そこから四半世紀経って。柔らかそうになったドラえもんは、かつて旅した世界を再びなぞっていってくれるのは、本当に嬉しくて、本当に楽しかった。
 
 なあんだ、これもドラえもんじゃないか。
 そう思った。
 
 ただ、世界や音がはっきりしていくほどに。道具に、ドラえもんに、体温が、音が、質感がダイレクトに感じられるような表現を備えてしまうほどに。彼らの中にあるものや、彼らの新しく友人になってくるものが、どうしようもなく空虚なものにみえて仕方がなくなってきた。
 蓄積されていく違和感に比して、毎週金曜夜七時に、相も変わらず新作がやってくるドラえもんとのび太の日常は、新しい時代に即した発想や話を提供してくれるようになった。ドラえもんやのび太の声は落ち着き、より自然になった(スネ夫としずかはかなり初期からしっくりくる演技をしていたと思う)、ぼくが慣れただけかもしれないが。でも、内面、どちらかと言えばのび太たちのいる世界そのものに違和感を覚えた。主張するBGM、やたらと泣かせたがる間と、説明も理路もなく感情をもって共有させたがることを至上とし、それを押しつけてくるストーリー。キャラクターの崩壊「ジャイアンがこんなこと言う奴じゃねえよ!」と何度となく画面を殴りつけた。でもそれは、前のドラえもんたちだって変化していたことだ。彼らもいろんな成長を忘れ、前とは違うことを言った。それを声や姿がすこし違って「お前はドラえもんじゃない!」と言ってしまうのは(たとえそうであっても)シツレイだし悲しい話だ。だからまあ飲み込んだ。なにより変ってしまったのは自分かもしれないのだ。ドラえもんは子供のためのもので、大人になりたくないアラサーがいつまでも空を飛ぶ妄想に、宇宙で呼吸をする妄想に、時間を超えてルーツを探る旅に出る妄想に、未来からやってきたやわらかくて口の悪いロボットとジャンケンをする妄想に固執してはいけないのだ。そう言って飲み込んだ。
 距離は離れた気がするけれど、ドラえもんは、のび太は、消えたりせずにそこにいる。と。

 でも、年に一度の冒険にいくと、彼らはもう、むやみに情動をひけらかし、ふりまわすようになった。「子供って、そういうもんだろ?」と言われてしまえばそうかもしれないけれど、いくらなんでも脈絡がない主張に振り回されすぎだと思った。「子供にはこれくらいしてやらないと、喜怒哀楽なんてわからないよ!」「子供にはストーリーなんてどうでもいいのさ、ジャイアンが歌って解決して、のび太が役立たずだけど最後にはゲストキャラクターを助けて解決して、ドラえもんが面白い顔をすればいいじゃないか。スネ夫? なんだっけ? あ、しずかちゃんはそこで脱いでてくれればいいから!」そう言われてバカにされている気がした。最後以外は全く同意しかねる話だ。そして、ビタイチ成長してないのび太にあたえられるウワッツラの報酬系、異世界はキレイな顔するばかりで、のび太の新しい友人はどいつもこいつもこわれたテープレコーダーのような美徳のメッセージを繰り返す電脳カカシばかり。あげく、ぼくが好きだった物語の形までもを模してそれを何度も、何度もやられてぼくは心底落胆した。

 そして人魚大海戦で、のび太が死んだ。
 
 ドラえもんがのび太を、劇中でただの観客に貶め、その存在を薄笑いで薄弱児童のことだからしかたないとばかりに冷たい"あたたかい目"で黙殺し、殺した。
 
 なにがなんだかわからなくなってしまった。
 ドラえもんはぼくに愛想を尽かし、とっくに未来に帰ってしまっていた。そう思った。
 今の子供たちは、ドラえもんのことなんか好きじゃないんだろう。そう呟いてやさぐれ、本棚の奥でボロボロになり、変色し、カビの生えたてんとう虫コミックスを読み返すとドラえもんはそこにいる。
 
 でもやっぱり、劇場のスクリーンで、冒険をしているドラえもんたちが観たいと、どこかで思っていた。

その次の年。新鉄人兵団がやってきた。

 ザンダクロスの頭脳がヒヨコロボと化した予告を見て、また凌辱が行われるのだと思った。「~羽ばたけ天使たち~」なんていう顎の裏がかゆくなりそうなサブタイに十二指腸がひっくりかえりそうになった。リメイクは骨がしっかりしている分、表面上ひどくはならない。だが、それらはぼくの深いところに根ざしてしまっている分、あとからじわじわと来る。新魔界の美夜子さんの声のような表面上の不満とか、美夜子の物語として成立させたい欲求が冒険であることを殺してしまったツクリとかもそうだが、新開拓に至ってはロップルくんの内面の堕落、ギラーミンとの対決への冒涜は、想い出が美しい分だけつらくなる(もちろん、新しい要素も嫌いな部分ばかりではないのだけれど、それと引き替えになくなってしまったものがどうしても気になってしまう)。こうして、数年に一度自分の好きだった物が、綺麗な顔に化粧をさせられつつ、血液の中に鉛を流し込まれるような光景をみつづけるなんて、あまりにもマゾすぎると思った(困ったことにぼくはわりとマゾなのである程度は大丈夫なのだが、マゾにも矜恃があるし、限界はある。なによりマゾはわがままなのだ)。
 そんなわけで、リルルの声が沢城みゆき嬢だというのだけを心の支えにしてなかば投げやりに映画館に向かった。

 すげえ良かった。

 廃刊前のぴあの出口インタビューに(いい年した)兄妹そろってそのよろこびのたけをヒイフウ言いながらぶちまけた『お、俺たち! ずっとこんなドラえもんを待ってたんですよ! デュフォカヌポゥ!』。もちろん満足行かない描写とかそんなものもあったし、鼻に付く過剰感情描写はちょいちょいあったし。ストーリー的にそこは都合いいんじゃないんスかね。なんてつつきゃあるわよそりゃね。チョークの線を踏まないのはどうしても悲しくなってしまうよね。
 でも、「これが新しいドラえもんだよ」と言われれば「そうか、きみが新しいドラえもんなのか、よろしく。これからもずっと」とその丸い手を握りたいと思わせてくれるドラえもんだったのだ。緑色した愛嬌をもつあのスネ夫の友人が、四半世紀を経て物語の中に溶け込んでたどり着いた、新しい"涙の出る装置"の物語だと思えた。
 良かったんだ。だから期待してしまった。
 

 だが。

ゴールデンヘラクレスオオカブトがやってきた。

 正直なところ、なかったことにしたい気分で満載な、2012春公開の「奇跡の島」である。名前の通り奇跡、逆奇跡も甚だしい。いったいどうしたら、どんな神経で、いったいどんな大人の事情があれば、どれくらい恥を知らなければ、どれほどドラえもんという作品に、キャラクターに興味がなければ、こんな作品ともつかないものを、俺たちのような大人になれないドラえもんという過去の夢を与え続けるキカイに群がる亡者のみならず、未来ある子供たちに素知らぬ顔で提供できるのか信じられない程の「汚い爆弾」だった。
 みんなでよってたかって、ドラえもんやのび太をナカミスイトールして、その中にめいめいのエゴを好き放題入れた結果、中身は破け、皮は溶けてまざり、汚臭を放ち、それを隠すために消臭剤のニオイがいっぱいに広がったおよそ考え得る醜悪のキワミが「ドラえもん」の名を冠し、キレイゴトを思想の街宣車よろしく叫びながら無軌道に這いずり回っていた。

 悪夢だと思った、そう信じたかった。こいつはもうどこかのウマノホネの「ぼくがかんがえたさいきょうのドラえもん」ですらなかった。無価値から害悪になりはてていた。ドラえもんでなかったことは、もはやどうにもならないし、そうでない日がやがて来ることも覚悟させられていた。そうであっても、せめて物語であればと願ったが、やはり叶えてはもらえなかった。望みの綱はエンターテイメントであることだった。人魚大海戦でもなんでもいい、ドラえもんのような格好をして、中に別のものが入ったものが、どこかで見たような殺陣をふるまい、おもしろおかしく走り回っていればまだ、恥を偲んで薄笑いすることもしただろう。
 
 だが、だが。
 
 どこをどうひっくりかえしても、腐った童心を掘り起こして未就学児のつもりで画面を眺めても、誰ひとりとして生きてはいないジェノサイドだった。一般人には理解出来ないが、ドラえもんをなにかの道具に貶めるために、背骨を引っこ抜こうとする大きな力が働いているという陰謀論に縋り、あまりの空しさに舌を噛んだ。褒める場所を探しても探してもなにもなかった。「退屈」を「さも面白そうに」描ききった作品というテーマがあるのではないか? と勘ぐり、それは成功しているぞ! とシニカルな喝采を浴びせてみせ、何度となく自分の首を吊りなおした。なにがしかの宗教の信者が国家とかに無慈悲に虐げられたときに「これは神の与えた試練である」とかなんとかくるった事を書き連ねている気持ちを齢30にしてようやく知る羽目になった。刹那的な感情を振りまく亡者の群れがぼくの息の根を止めた。
 ドラえもんの後ろで誰かがそれを作って居ることは知っていても、それを作って居るひとに対して感謝を忘れたくなくとも、それの人達の顔を知りたいとは思わない。そこを探ろうとすればするほど、ドラえもんは遠くなってしまうと信じていたから。そんなことをしなくたって、ドラえもんは確かにそこにいるはずのものだったから。

 でももうダメだった。見えてしまった。この作品は一体全体誰が見て幸せになるわけでもないのだと、とりあえず作らなければならないから作られたものだと思った。メシを食えばクソが出るのと同じだ。そのクソをカレーだと呼ばわられて「ねえおかーさん、これがかれーなの? なんかへんなあじだねえ?」となることを、だれも想像しなかったことに、いや、想像したのにそれを止めずに垂れ流したことに怒りすら覚えた。子供の顔を盾にして怒りを表明するほど悪辣でくだらなくてつまらなくて卑怯で吐き気を催すことはないが、ハリボテのヒーローにからっぽでむじゅんだらけでおもしろくもなくてなにより脈絡のない「せかいへいわ!」「じんるいあい!」「おやこあい!」「うたでてきをやっつけろ!」「ゴールデンヘラクレスオオカブトだァ――――――――――! いったいなんなのかわからないけれど!!!! 祈ると!!! ねがいを! きいてくれるぞ!!!! 死んでいたカブトムシが蘇った!!!! いみが1!! いみがわ!! わから!!! ギャ―――――――――――!」と叫ばせるすり切れたコピーミスのテープレコーダーよりはマシだと思った。あ、最後のはぼくの叫びです。
 
 このそびえたつでかいクソをひりだしたやつらは、誰も、誰もドラえもんに興味なんてないのだ。好きでも、嫌いですらもありはしないだろう。そいつらは、ドラえもんを好きな奴らを嫌いで、害したくて仕方なくて、だからこんなものを作ったのだと思った。希望を与えてから殺すタイプのものすごい効果的で基本的なトドメの刺し方だとしか思えなかった。
 あまりの苦しみに、ぼくはのび太が裏山に引きこもったときの回を思い出した。裏山と心を通じ合わせて人間社会に帰らなくなったのび太にドラえもんが「こんなところにいたらきみはダメになるぞ!」と説教する回だ。いやいや、ドラえもん。そうじゃねえだろ。「短い間だったけど、楽しい夢をみていたと思えばいい」だなんてそういうことかよ、そりゃねえだろ。今の主題歌のタイトル言ってみろよ「夢をかなえてドラえもん」だぞ。頼むよ。
 
 裏山はまあともかくさあ、きみに裏切られたら、ぼくはこれからどうすればいいんだよ。
 
 とりあえず、カブトムシのことを嫌いになることにした。
 ドラえもんのことを嫌いになるわけにはいかないけれど、忘れるまでにはもう少しかかりそうだったから。
 
 
 
 ここまでが去年の話。
 つまり、前置きだ(長いよ)
 
 
 

ひみつ道具博物館(ミュージアム)感想

あーんもう、すげえ良かった。

 

 新ドラで今までやらかしてきていた、怖くもない恐怖の異世界のわざとらしい描写ではなく「名探偵ホームズ(っぽいなにか)」からはじまる。授業中のび太の夢。のび太の日常。そして超空間から伸びてきた謎のメカ手に鈴を奪われたドラえもんが"「のびたくーん!」と叫び、主題歌に入っていく"。
 
 もうここで手応えがあった。
 ウヒョオヤバい今作はイケる。そう思った。
 
 
 退屈などさせないとばかりに序盤はスッパリと話が進む。日常の描写はもうさんざんぱらやったからいいよねてなもんだ。無いとさみしいものだし、唐突な感じはしてしまうが、そもそも大長編は「非日常」であるべきなのだからこっちのほうが正道だろう。今回、シーンの切り方がバッサバッサ音を立てて切っていくので何度となく戸惑う(切り方が大分うまくなったので、迷うことはない)(でもすげえつかれる)が、最後まで観ればそこまでして切り詰めた情報量が入っているだけあった(つまり、中盤はダレる)。ところ狭しと並べ立てられた情報の多くは伏線となって最後に収束していく。ビジュアルも物語も両方がおてて繋いで視聴者をクライマックスへ持って行かれる。ジェットコースターが落ちるべくして落ちる。ああもう! そうだよ! これでいいんだよ! 物語とはこういう物だよ!

 今回用意された異世界は「22世紀の未来」。ドラえもんとドラミがいる世界と共有のおなじみの時代。のび太たちにとっても手が届く未来。その2112年(いや、セワシたちがいるのはもうちょい先の設定だけども)はもはや2013年から1世紀すら離れてないすぐそこの世界。だから、世界観も現代とそう離れてはいない。そのうえドラえもんの故郷である時代、言わば地続きであるが故にそこまで「異世界」という感じもない。すこしばかり長生きをすればまごうことなくあるはずの未来だ。
 「ひみつ道具博物館」という名前の通り、ひみつ道具がフィーチャーされている。きっとみたことがある道具も、みたことがない道具もあるはず。それらにも作る人があり、新しい物を作り出す人があり、使う人があり、さらにそれらを作り出した人がある。今作のすばらしいところは、ここをちゃんと気付かせてくれることだ。こんなタイトルだから、ゲストキャラクターは博物館の館長と、道具発明家とその孫娘、道具発明家ワナビと、あと怪盗DX(今回の敵)を追う警部。その誰しもが、普段ドラえもんがやっているように、呼吸するように特段特別なことではないとばかりに未来の道具を劇中で使ってくれるのだ。
 その上で「そんな使い方ができるのに、未来のセキュリティはどうなってんだよ!」といったツッコミはもちろんできるし、「ある種の素材を使った道具を使う為には免許がいる」なんてセリフとかまあ大人の(というか大人げない)視点でつつけばいくらでもツッコミどころはあるにはあるが、気にはならない。全体でけっこう無茶をやっているので、矛盾であるとかそういうものがいくらでもあるのだが「気にならない」。
 なぜか、それはもうキャラクターがしっかりしているから、あと、どれだけ切り詰めていても最低限の説明と、想像の余地でたどり着くある程度の答え(もしくはそう受け手が思える余地)を残している塩梅の巧みさにあると思う。これこそが、旧作初期のテンポのいい冒険にあった物だと思う。正直、最近のを楽しめなくなっていたのは、大人になってしまったから「いろんな物が目に付きすぎて、誤魔化しが気になるようになったから」入り込めないんだと思ってたんだけど違いました。ただ、筋が通っていないだけだったわけです。通るべき筋が通っていればもはやこっちのものです。世界は、提供された情報からどこまでも広がっていく。だから今回は、わりと意図的に「狭い」ステージにしたんだろうと思う。
 だいたいいつも、そこまで広い世界を描こうとはしていないのだ。けれど、箱庭だったとしても、その中身がこどもだましであったならば、醒める。狭くても、中身がちゃんとしていて、箱の周りに背景が描かれていて、楽しい空間ならかまわないのだ。じゃあそれって具体的にはなんなのだ。
 
 

唐突に、今作のスネ夫の話をしよう。

 
 スネ夫のポテンシャルは結構低い。おそらくのび太よりは低い、のび太より低いということは、あの中では一番立場が弱い。それは物語の力学でのび太が主人公として扱われているーーからだけではない。その立場のもろさに、きっとスネ夫は自覚的なのだ。
 実際、スネ夫のポテンシャルは、額面上ではそう低くない。ただ、低い背と、おもしろいルックス(こっちは、親から継承されたナルシシズムでどうにかごまかしているようにも見える)は、小学生である彼の自意識を抑圧するに足るデメリットなのだ。
 スネ夫はのび太のことを非常に強く意識している。スネ夫がのび太に意地悪をするのは、のび太の立場に落ちてしまうのが自分だと、本能的に感じているからだ。このパワーバランスに敏感なところや、感受性が豊かなところは、誰にもまけない部分であるのだが、そのあたりはまだ(自然に認めてくれる人が近くにいないので)自覚はないと思う。(スネ夫は、パパのコネで認められたい才能をそれなりに認めてくれるパイプをもってはいるけれど、プライドが高いのと、そのコネで認めているというめんどくさい自覚もあるので、本心から認められたいといつも願っている小学生なのだ、たぶん)あとは手先の器用さを生かして、プラモを作ったりしている。これらはしずかちゃんにもジャイアンにも勝っているところだし、ドラえもんというロボにとっては最大の弱点だ。だからスネ夫はこの点で優越感を満たせる。
 しかし、のび太にはそうはいかない「射撃」と「あやとり」というさらなる器用さを常人を遙かに超えたレベルの才能で何度か見せつけられている。スネ夫はもちろん、特にあやとりなんかにおいては「そんなものが、何の役に立つんだ!」と鼻で笑う。ところが心中穏やかではない。その技能に必要なポテンシャルは、自分のプラモをいじるような小手先の器用さよりも、はるかに上ではないのかと不安になる。
 子供のヒエラルキーは非情だ、もし、のび太が「ダメな奴」というレッテルをはがしてしまえば、次にその座に付く可能性があるのは自分だと常におびえているのだ。だから、最大のパワーを持つジャイアンにこびへつらっている。
 それがゆえに、スネ夫はのび太を意識し、のび太を意識的にハブにし、悔しがる姿を自分の目でみて安心する。だから、執拗なまでにのび太を観察し、馬鹿にし、構うのだ。そして、それは裏返せば、認めているということでもある。おそらく、他のクラスメイトは、表層的にのび太のことをダメな奴だと思っているのだろうし、のび太は補正がかかっていなければ、ただのダメな、もしかしたらクズなやつだろう。どちらにしろ、ジャイアンによく殴られているかわいそうなやつ止まりである。だが、スネ夫は違う、のび太に対抗意識を燃やさせ、自分ものび太がなんらかの形で(それはほとんど、ドラえもんの力だが、自分だって親のカネの力である。彼は、「借りてきた力であろうとそれを引き出してきたなら本人のちからである」とちゃんと理解しているのだと思う)対抗してくれば、きちんと悔しがるフェアな感情をぶつけてくるのだ。ジャイアンや、しずかはわかりやすいから、別に言わなくてもいいと思うが、彼らが、のび太と一緒に冒険に行くのはちゃんと、こうした理由がある。
 彼らは、対等なのだ。

 出木杉が大長編で一緒に冒険できないのは、彼が自分を隔離しているからではないかと思う。彼はまともで賢く、頭もよく、慈愛にあふれている(新での言動を見ているとそうともいえないが、ていうか最近扱いひどすぎるぞ)だが、公平すぎるがゆえに、潔白でありすぎるがゆえに、聡明でありすぎるがゆえに、どちらからか貼られた分別のある完璧な大人の気配が(本当はそうではないとおもう、彼は自分で小遣いをためて望遠鏡を買おうとするフツーの小学生なのだ)彼を大冒険に誘わせない。

 閑話休題。
 
 スネ夫はそんなわけで見せ場がなかなか与えられない。スネ夫が持っている力の大部分である財力(それも、そこまで桁外れのものではない)は、異世界においては役に立たない。力はとりあえずジャイアンの領分で、機械はドラえもんの領分、そして、手先の器用さを生かすラインは派手でない上にのび太の射撃にともすれば持って行かれる。もうそうするとあんまり残っていない。宇宙小戦争くらい舞台が整っていればまた別だけれど、基本的には「ママー!」と叫んで、その場にふりかかっている恐怖をわかりやすく表現する役回りだ。(もちろん。これはこれで重要な役だ。なにせ、他の連中が小学生とは思えないくらいに肝が据わっているわけだから)
 
 だから今回の活躍は、本当によかった。
 小さくなってしまったままの体で、分解されたビッグライトをスネ夫が配線をつなぎ直して当てるのだ。それができるのは、その場所で彼だけだったというのはあるが、それはスネ夫がやってこそ意味のある行動だし、そこにいるのが他のメンバーだったら「できたかどうかわからない」「スネ夫ならではの技術」によって話が進んだ。そのシーンまで、今回は口数も涙も抑えてクールに決めているジャイアンが、ちゃんと気を配り、何度かスネ夫を助けている。それに恩を返した形が成り、スネ夫に対してジャイアンが「スネ夫がやってくれたんだよ」とみんなの前でさりげなく褒めるシーン。そこは本当にかんがえられたシーンであったはずなのに、ことさらに尺も取らず、主張せず、さらりと流していく。でもそこにははにかみながらジャイアンの横に付き、先に進むスネ夫の姿が描写されている――。

 今作は、こんな感じの愛で出来ている。と思う。
 
 

他のキャラクターの印象深いところとかつらつらと。

 
 今作、ドラえもんの鈴の替わりのものが替わっていくのも実にかわいく気が利いている。おもしろがっていろんなものを当てはめるのび太に「黄色ければなんでもいいのか!」と怒りながらも、その後、シーンが移る度に様々な「黄色いもの」を鈴の代わりにつけているのがかわいらしい。だれがつけたわけでもないと思うので、こうきゅうでおしゃれなロボットであるドラえもんは、きっと自分でそれを付け替えているんだと思うんだよね。恐らく普段だってこだわりがあって磨いたりしているはずなのだ。それで、誰もそれには劇中でツッコまないのも今作のステキなところだ。そんなものにツッコんでいようがツッコんでいなかろうがかまわないし、どちらでもいいけれど、そんなふうに色々変えてみているドラえもんもきっとその状況をそれなりに楽しんでいたり、奇抜なものをしてツッコミをまっているのかもしれないとかんがえるのも楽しいので「余分なツッコミはないほうがいい」のである。そんなものは勝手に観ている方でやるのだ。
 鈴といえば、旧ドラでは「壊れたネコ集めスズ」から「小型カメラ」にバージョンアップして「ぼくだってたまには変えることもあるんだ」と言っていたエピソードはどうやらなかったことになっている。(こういう意欲的な変更がけっこうある)その代わりに、鈴には重要な役目が持たされることになる。
 すごいネタバレでアレだけど、多分原作にもどこにも無いはずのドラえもんとのび太の友情エピソードが、鈴に新しく組み込まれたのだ。これってけっこう凄いことだ。今回イヤミなく自然に描かれるエピソードでは、ドラえもんとのび太がまだぎくしゃくしていた頃の事を描いている。原作では初期のドラえもんはあまりにも傍若無人でポンコツだが、それがいつのまにか理解ある保護者のような常識的な顔をして野比家に居座っているので、一体どこで「ドラえもんとのび太は友達になったのか」というのがわからない。まあわからなくても「ドラえもん」という作品に問題はないし、友達なんてものはなんとなくいつのまにかなっているものだろうから、描くまでもないし、そこを描いてしまうのはものすごく恐ろしいことだ。そこがダメなら、他がいかによくても台無しになるし、今後の「ドラえもん」まで傷を残しかねないのに、ベタではあるけれど、とても繊細にやってくれて、あーもうすごくよかった。
 
 その鈴を今回の敵「怪盗DX」が狙う。そこにも、ありがたいことに伏線がつながってくれるのだ。(しょうもない伏線だけれど、それがまたいいのだ)

 しずかちゃんはまあ今回もいやらしかったですが、わりと大人しい感じだった。もちろん持っていくべきところでの破壊力は随一でしたが、あのシーンはホントに「フッ!」って声だして隣の小学五年生男子がふとゴクリと唾を飲み込む音が聞こえるくらいいやらしかったよ。新魔界のスカートもかなりのものだが「羞恥」を本能的に教育するツールとしてこれ以上の物はないのではないかと思えるくらいエロい。
 
 のび太もホームズのコスプレしてバリツバリツ言ってるだけではない。ちゃんと自分でゲストキャラと絆を築き、考えて、幸運を味方にして、彼が結構持ってる武器の一つ「きみは、道具を使うことにかけては天才的だな」よろしく(今作にこのセリフはでない「きみって奴は……」は何度か言われる)ちゃんと主人公としての役目をこなす。道具の効果だけだけでもなく、ちゃんと探偵としての役目をこなすしね。
 
 ゲストキャラは道具職人見習いのクルトをはじめ、無駄なく配置されたキャラクターがイキイキとドラえもんたちに関わってくる。クルトをはじめ、のび太と比較される少年ゲストキャラは異様にマトモで善人なことが多いが、彼はまた方向性が違い、かなり魅力的なキャラクターになっている。
 彼に限らず全体的に腐女子好みの歯車がそこかしこで音を立てて嵌っていくのがちょっと怖い。異様に面白いオッサンが多いのである。彼らが未来の道具を使って博物館内の捕り物が始まるあたりは、中盤の世界観説明しながらの伏線張り巡らせシーンから終盤に入るところで、ここから怒濤のようにエンタテインメントになる。道具の説明をここでけっこう「知っている物として」すっとばしていくのは「未来人にとっては常識だから」あたりまえなんだし、個人的にはそうしてほしかったところなんだけど、本当に「口で説明しない」「道具を効果も含めて絵ヅラだけで説明してしまう」ってドラえもんだからできることなんだけど不安ではないのだろうか、ああいや、これはちゃんと「みんなドラえもん好きだよね? 効果言わなくてもわかるよね?」という信頼なのだな。と感じ入ったのです。
 
 そんなクルトくんの想い娘、ジンジャーちゃんは家庭的でおじいちゃんッ子で、活発なれど家庭的でお節介ながら縁の下でちゃっかりという属性の完璧に揃えられたまさに少女でありもうなんかすごい。よくわからんがただかわいい。彼女は最終的にドラえもんたちとはほとんどカラミがないことが勿体ないと感じるくらいにキャラがたっている。多分「からませたい!」という欲求はあったはずなのに、そうしなかった。どうやったっておいしくなるに違いないこのキャラクターとのカラミをすっぱり切り捨てたんだと思うんだよね。それがまあすごい。で、このキャラクターがじゃあ意味なかったのかというと、物語の表層としてはそんなに役目はない。ちゃっかりと博物館内の異空間を利用して、紅茶とかおかしとかミルクとかの必需品をかすめ取っていくだけ(そしてそれだけいろんなところに出入りできるのならジンジャーが道具の中のチップをとればいいというのはまさに野暮な話である。そんなことはまさにどうでもいい)で、つまり、怪人と目される現象の理由の一つとしての設定しかない。
 だが、ジンジャーは今作の裏主人公ペプラ―博士の孫娘という立場がある。彼女がいないと、ペプラ―博士とクルトの話が成り立たなくなる。ああこれは致命的なネタバレというか余計な考察をしないといけなくなるので最後に付け加えようとおもいます。
 
 そして、ここまでけっこう緻密に構築されたものを、(とくに前述の博士達の話はけっこう作品での表現をぬきにして考えるといくぶん重いんだけど)それをコメディタッチとエキセントリックなキャラクターですごいマイルドにしてしまう手腕を、全体で見せつけた後のクライマックスがまたすごい。確かに今回ドラえもんは踏んだり蹴ったりで、道具も何重にも封じられてしまう有様。この封じ方がまたちゃんと噛み合ってていいのよ。でまあ、そうなるとドラえもんのカタルシスがなくちゃいけないわけですから、ちゃんとあります。それがまたすごかったので、しかもねえ、二段重ねでやっていただけましてね。すばらしかったですよ。
 
 なんかもうすごいとかすばらしいとかしか言ってないよね。うるせえないいから見てこいよ。
 

まとめ

 正直、また退屈な映画になると思っていた。冒険ですらなくなるのだと予告を見て思っていた。あきらめたはずのぼくの中にはまだドラえもんの大長編は「まだ見たことのない未知の世界への冒険であるべきだ」という意識があったわけだ。何気ない日常から、ドラえもんの道具を入り口にしてゆっくりと新しい世界に自分から足を踏み込んだり、引き寄せたりしていく過程が好きだったから。やがて、その世界から自分たちの世界にもたらされる危機や、その世界に対してもたらされる危機を、降りかかってきたにせよ、飛び込んでいくにせよ解決したりしていく様が楽しかった。
 だから、大冒険でなければならないと思っていた。
 
 実際、フタを開けてみればこの映画は大冒険ではなかった。もちろん危機はあったし、最後は危機から世界を救うカタルシスがちゃんと用意されている。ただ「ハラハラドキドキ」の物語から、「ワクワクドキドキ」の物語に変わった。この「ハラハラ」のことをこれからも期待し続けてしまうだろう。個人的には、こんないいものを見せられてもまだ、あの日の大冒険を求めているのだ。今まで誰も踏み入れたことのないような異世界で、彼らが孤立無援の中から、智慧と勇気とひらめきと友情と「未来を先取りした魔法のような科学の道具」で世界を救ってしまう姿が見たいのだ。
 今作の匙加減は本当に絶妙だった。大冒険ではお世辞にもないし用意された恐怖や危機はもキャラクターの陽気さとか、全体の雰囲気のせいでだいぶマイルドにされてしまってた。本当は、そういうやり口よりももっと、旧ドラ初期のような「ぼくたちがやらなければ……地球が……みんな滅んじゃうんだよね……」「でもしょうがないよ、ぼくらしかいないんだ、やるしかないじゃないか」みたいな悲愴な雰囲気が、兄ぶったシニカルなドラえもんの姿が、好きで好きでたまらないのだ。
 しかし、そうでなかったからといって、今作はつまらなかったわけではないし、おもしろかったのだ。「大冒険でなければならない」と、旧ドラからずっと心を縛られてきた人はぼくだけでは無いと思う。旧ドラの初期名作以上の大冒険を、だれもがドラえもんたちにずっと冒険させてやりたかったんだと思う。でもそれはあるときからずっと叶わなくなっていた。何が悪いかとか、やりつくしてしまったのか、何もかも見えてしまうこの世の中か、暗い世の中で暗い物語を見たくないのか、まあ理屈なんてどうでもいいけど、とにかく、ぼくらはずっと砂漠を歩いていたんだと思う。(でもしずかちゃんは脱がなきゃいけない。じつにまずいもっとやれ。)
 だって、愉快でもユルくても、悲愴でなくとも、悪い奴がいなくても、良い奴が悪いことを一切しない善人でなくとも、ジャイアンが歌わなくとも、のび太が涙を流してよくわからない事をいわなくとも、面白かったのだ。最近の、そして新ドラの初期なんかはこの温度が、空気が、間が抜けていて、それが失われているのはきっと気がつかれていて、だから、良かった時の模倣を表層的にずっと繰り返して試行錯誤していたんだと思いたい。
 そうしてやっと今回、呪縛から一歩抜け出せたんだと思う。これはなにもドラえもんだけではなく、世の中に時代を超えて受け継がれるものの殆どにある呪縛なのではないかと思う。ドラえもんは未来を描いてしまうから、未来を手元にたぐり寄せたSF(すこしふしぎ)を描かなければならないからこそだ。
 
 ひみつ道具博物館はSF(サイエンス・フィクション)ではないかもしんない。
 けれど、見たことがない形だったけれど、SF(すこしふしぎ)の作品だった。
  
 
 大冒険はまだ、ポケットのどこかにあるはずだ。



 「ドラえもんがいるわけないでしょ。」
 「ドラえもんは帰って来ないんだから。」
 「もう、二度と会えないんだから。」

                ――「帰って来たドラえもん」より

 
 そんな気持ちで、ジャイアンとスネ夫に一番ざんこくなウソをつかれたのび太くんの覚悟で、今年のドアを開けた。
 そいつは大きなどこでもドアの形をしていた。
 
 あんまり見覚えのない部屋だった。けれど、本当に、期待なんかしていなかったのに、そこにいた。
 のび太くんたちのために、
 そのついでに、かつてのび太くんだったぼくらのために、帰って来てくれた。
 ロボットのくせに、血が通ったみたいな、暖かく柔らかい手で。


 ドラえもんはここにいる。
 前とは違うけれども、今は確かにそう言える。
 
 
 
 ずっとずっと、言いたかった。
 ありがとう。
 
 
  















 
 
 

 

蛇足

 

裏主人公 ペプラ―博士達の話と、長く生きすぎたドラえもんという作品の話。

 注意。ネタバレひどい

今作の背景の説明。

 過去にハルトマン博士とペプラ―博士が人工太陽を研究中、ペプラ―博士の些細なミスで制御不可能にしてしまった人工太陽があり、それをハルトマン博士がその失敗の際に発見した仮想金属「フルメタル」で制御可能にし、同時にその「フルメタル」を利用して先端未来道具の制御の礎を確立した。ペプラ―博士はそのミスで追放されたが、ハルトマン博士とまた一緒に研究したり、迷惑をかけたのを謝りたいと思いつつも、開発者の島から放逐されているので島の中にいはするけれどおおっぴらに活動できない。そんな中ハルトマン博士は死ぬ。殆どの道具に使われるようになったフルメタルが有限であることを突き止めた?ペプラ―は独自の研究でペプラ―メタルというフルメタルの代替にして、他の金属をそれに変換出来る機関の研究に打ち込む、その研究の為に道具整備工場に(乳飲み子の孫娘ジンジャーを背負いながら)忍び込んで研究をしていたが、そこで捕まりそうになってしまう。その時に研究成果を修理中の道具(そのうちのひとつがドラえもんの鈴だった)に隠す。
 作品内時間でそのペプラ―メタル機関を発動させるが暴走し、フルメタルが消滅してしまう。フルメタルを利用していたドラえもんの道具、博物館の新しい道具、人工太陽の制御が消滅してしまう。
 自分の理論が失敗し、絶望するペプラ―博士に、「へっぽこ道具製作者」と博物館では言われながらも、隠遁していたペプラー博士に励まされたクルトが「諦めるちゃいけない、どんなものにもぜったいいいところがあるんだからといってくれたのは博士じゃないか!」と言う。その後、人工太陽はクルトが「偶然」作り出した「ナカミスイトール(ただし吸い取った物は消滅する)効果を持つ人工生命道具ポポン」によって消滅する。

――といったあらすじだ。(というかオチほとんど全部だ)

ドラえもん」という作品は、未来に繋がる「未来がなければ生きていけない」作品だ。それは作品内の話だけではなく、それを見る人々にドラえもんが道具で叶えてくれるような奇跡が、現在の科学が発展した先に「本当にそんなことができるようになるかもかも知れない」と思われなければいけないと言った意味だ。
 だから、2年前のあの日は敗北の瞬間だった。大人達はこぞって過去を恥じ、自分たちの慢心を笑った。テレビには科学者が映し出され、みんなで「おまえらは人を、かけがえのない大地を、未来を、奪ったんだ!」と詰った。その姿と、ペプラー博士の姿がカブる。彼は信用をなくし、立場をなくした。それでも旧友ハルトマン博士へ罪滅ぼしをするべく願っていた。それは、名誉だけではなく、科学の発展を見据えていたからだと思う。ペプラー博士は、幼い孫娘ジンジャーを連れて(息子か娘かしらんがそいつらはどうしたんだろうな)まで、研究をやめなかった。ということは、やがて未来社会を構築するフルメタルが枯渇してしまい、また、自分のミスで制御しきれなくなった人工太陽の始末をつけなければならない使命感から、研究を続けたとみる。孫娘のジンジャーが(その性格もあるが)表面上は反社会的な活動をしているのを認め、協力しているのは、血が繋がっているからだけでも無いと思う。
 ペプラー博士の弟子となるクルトが、ペプラー博士がペプラーメタルの生成に失敗して心折れたときに叱咤したのも、ジンジャーが劇の終り際、まだペプラーメタル生成への夢を捨てない決意をする祖父に向けてジト目で「こりゃ、おじいちゃんそのうち世界を滅ぼしそうだわ」と言って祖父の消えた画面外超空間に去っていくのも、示唆的だなと思って良いと思うのだ。
 クルトとジンジャーがいる限り、今後もペプラー博士は(悪役っぽい振る舞いをやたらとするが、どうやら良いことをするの恥ずかしいタイプの人だ)失敗はするだろうが、道を踏み外すことはないだろうと思わせてくれる。それはやがて、クルトに引き継がれるのだろう。「失敗しても、まちがっても、それが普通で、信じた方向ならそれに向かって試し続ければいい、それが科学なのだ」と言っているような気がした。
 
 まあこの解釈なら希望にあふれるいい話だろう。
 けれど、この示唆はここで終わらない。
 
 人がエネルギーを求めて生み出した人工太陽は、ちょっとの失敗で制御できなくなった、やがてその制御を失ったとき。この作品の中では「ポポン」という「偶然」生み出された、科学としてあってはならない「再現性のない」物に解決をさせてしまった。これはやっぱり、本当なら敗北なんだと言っているに等しい。

ドラえもん」の世界ですら、その未来で、科学は敗北してしまった。行き過ぎた自分の力で。

 
 
 一応言っておくと、今作の中で、そういった思想が表立って主張されることはこれっぽっちだってない。そんなことがだれかの口から急にナントカ保護団体の霊が乗り移ったような風に蹂躙されたら、この作品を評価なんか一切しやしないのだ。

 まあ、生み出すよりも制御するのが世の中むずかしいんだよね。という結論にして、実は今作は、旧作に対するアンチテーゼだということにしてみないか? お前アンチテーゼって言いたいだけなんじゃ……。


追記

スネ夫の下りのオチ文章抜けてた。

「現代の住人であるスネ夫がその知識で配線をいじれる未来の道具。これは現代と未来が確実に繋がっていることを如実に示しているではないか」

みたいなの好きなところに入れてください。

あと「ポポン」の名前が「ポポポポーン」に通じるみたいなネタもいれ忘れてる。だからどうした。いやほら、作ってる方も蛇足の考察のこと意識してたんちゃうん? みたいなのがにわかに現実味を帯びてくるじゃないですかね?(そうか?)
あと、「科学の敗北」と結論づけるとこはだいぶ乱暴なのは自覚しているけれど、「そんなことにはさせないしならない」と言って欲しいなと思ったりしたので書きましたー(小学生)