ナントモハヤ

明日のぼくを殺せ。昨日のきみを救うために。

旧友について1/ファング・オブ・ザ・フロッグ・オリジン

ファング・オブ・ザ・フロッグの話をしよう。

http://ch1haya.hatenadiary.jp/entry/2012/09/30/130315

こういう短編小説を10年ばかり前に書いた。始めたてのツイッターでおぼろげにできていたこじれた精神性を持つゆるい"クラスタ"の中で「ふーんちはやさん、ドラえもん好きのショタコンってだけじゃなくてこんなのもかけるんだ」というような印象を得られたような気がする。
俺はこれを皮切りにいくつかの純文学っぽい短編を書くことができた。ちょうど失職していてツイッターを見ながらアニメを見て全ての時間を浪費していたからインプットとアウトプットが焦燥感をエネルギーにして空回りをずっと繰り返していた頃だから、それはとてもうまくいった。同じくして、ずっと書きたかった少女たちがかわいそうな異能伝奇もその一端を形にすることができた。
そんなわけでこれは別にたいしてよくできた話ではないにせよ、人に表紙を描いてもらいながら同人小説として人に金を出させ感想をもらった、その後しばらく創作する惰性を与えてくれた俺の中でとても重要な位置付けの作品なのである。
それまでも「俺はものを書くぞワナビなのだぞ」と口いいながらもポエムのようなものとブログの出来損ないみたいなものしか書いてこなかったのでどういう経緯でこれを書けたのかはあまりよく覚えていない。だが、無から物をかけるほど俺は器用でないし天才でもない。
この話を読んだ俺に近しい誰しもが気づいているだろうし、ツイッターでも何度かいってると思うが、要は自伝である。
とはいえ、あの小説と俺の人生が共有する要素というのは「中一の時に親の転勤でアメリカに渡った。その時に小学校の頃親友だった友人が別れの挨拶にわざわざ空港まで来た」という点に過ぎない。
妹から「お兄ちゃんは友人というものに対してものすごく薄情なことが多い」という評価をいただいている通り、彼について覚えていることは多くない。
幼少期から少年期を転勤に伴う引っ越しで長く同じ人間関係を維持してこなかった、その必要がなかった俺にとって、空港まで、わざわざ関係がこれから切れる友人の見送りに来るという行為が"友人に対して薄情な"俺にはなんとも理解できなかった。

彼は泣いていたと思う。中一のおわりである。
俺たちは同じ公立小の四年で一緒になり歴史や理科や読書が好きであるから、地元の少年らとそれを擁する教師に迫害を受けた。
彼らは今思うと決して暴力的ではない、同じコミュニティの中に同調せず自分たちの信じない価値観を基準に見下してくるような鼻持ちならないひょろもやしがいればブン殴りたくなるだろう。それが少年ではなく、教師だとしても同じだ。そんなことも知らないのかというような仕草で本から得たばかりのうんちくを授業で語ろうとすれば器が大きくない限り、それを覆す老獪さがない限り力でねじ伏せたくなるのは人として当然の情動だろう。
我々は迫害されし拒絶されしコミュニティからの落後者として小学四年で決定づけられた。小三の終わりに海外から転入してきて、知識と経験をひけらかす鼻持ちならない逆上がりもできない小デブをサッカーボールにするのは自尊心のある人として当然の行為だからだ。幼い俺は、歴史に魅入られていた彼とともに、喘息持ち、巨人症、小四で足し算がおぼつかない奴、先天下半身麻痺と同じカテゴリーに入れられたのだ。
小四で足し算がおぼつかない彼を、宿題をやる気のなかった俺が"罰として"放課後勉強をみることになっていた。小六までにどうにか割り算ができるまでにしたことはこ俺のかすかな誇りだが、二桁兄弟の長男であった彼は、その後あまり口に出せない終わり方をしたと聞いている。
身体が不自由だった彼を迫害していた人でなしは流石にいなかったように思う。しかし俺はやがて、インターネットの力で同窓会掲示板に書かれた彼の怨恨ともいうべき憎しみを見かけてしまうのだが、この話はまた別の機会に。
さてそんな錚々たるメンバーの中で、「マシ」というよりは話を合わせることができたのは歴史好きのその彼だった。 歴史好きといっても、彼の知識はいわゆる歴史教育漫画によるものが全てで、俺と似たようなものであった。俺は彼を自分と似ていると思いながらも能力的には下位互換だと思いあがっていた。
公立というレールの上にいると、中学でも同じような環境に身を置かねばならないことをその辺りで知った。面倒だな、なんて救いのない人生だと思った矢先、中学受験というものがあるのを知った。親父も歩いたそのレールなら俺にとって安全であろう、なにより今自分がいる環境の延長などごめんだと思っていた俺は、しぶしぶ模試を受けた。クイズとパズルに毛の生えたようなものを適当に解いただけののにまわりが思ったよりもいい成績だった。いや小三まで海外で自国の娯楽から隔絶されたような体の弱い少年の娯楽は読書になるに決まっている。その資源が潤沢であったなら、その時点で課される試験など良くて当たり前なのだが、親は浮かれた。子は子であのサルどもと一緒に居ずに済むならよいことだなと漠然と思った。塾を休んでコンビニでエロ本を読むのが日課になったがそれはまた別の時に話そう(そんな話すことある?)
歴史好きの彼に特段受験のことを言ったかどうかはわからんが、彼は知っていたのだと思う。俺は彼が受験するのを知っていたのかどうかすら覚えていない。同じ塾にはいなかった。
そういや塾でも俺は浮いていた。授業は寝てるのに成績はそこそこいいので、名物教師は俺の頭をボールペンで刺した。俺はますます授業に出ずにコンビニや本屋を渡り歩いて終わる頃に家に帰ってきた。親にはバレてたけど。
俺は特に学校を選ぼうという自主性はないので親父と同じとこに入り、歴史好きの彼もまた地元にほど近い中で最高のとこに入った。俺も確かにそこを受けていた。そういやそうだ、マリオカートしながら一緒に合格通知を聞いたきがする。今思い出したわ。彼がどうしようもなく喜んでいたのを思い出したわ。

親から聞いた話だ、彼の親から、俺の親が聞いた話。歴史好きの彼は俺を親友だと思っていて、本当は俺と同じ中学に行きたいと思った。それまで受験ということは考えていなかった。彼の家は地主なので地元で適当にやってれば適当に生きていけるらしかったマジか羨ましいな。彼もその親も、俺に感謝していた。いじめられているのを助け、友達になってくれて、受験と学ぶ楽しさまで教えてくれて歴史だけでなかった。
「それ俺の話じゃなくて混ざってないか」なんども親に聞いた。彼はもう太平洋の向こうだ。だが、そうなのだろう。俺が人生の片手間に逃避として、間に合わせとして行った行動が、感謝されるほど彼の人生を左右してしまったのだろう。
見送る彼の家族を前になにか呆然としていた俺は飛行機の中で親からその話を聞かされた。なんなのか。卒業から一年経ってまで別れを空港まで言いに来たのだ。俺が逆の立場であったとてやるかと言われたら多分やらないだろう。
ファング・オブ・ザ・フロッグ にしまったのは、あの日、飛行機の中で旧友に、旧友の家族に、その気持ちを抱かれたことに対する忌避感、違和感、そんな怨念なのだという話を今日はしてみました。

人生を加工せずそのまま切り売りするようになっちゃ芸人おしまいだねえ。(芸人ではない)