ナントモハヤ

明日のぼくを殺せ。昨日のきみを救うために。

美味しいものの話

しんきくさい過去と内面の切り売りだけで人生を構築して行けるほど、俺は人間ができているわけではない。

今日は生きとし生けるものがせねばならない代償行為について述べようと思う。

 

何度も言うが我がちはや家の家訓は

「うまいものを食べて死ね」

である。うまいものを知らずに死んではならぬのである。死ぬことすら我々には許されない。しかし我が家の「うまいもの」はわりとハードルが低い。親父は飲み屋のポテトサラダも旅先のソフトクリームも大好きで「この世にこんなうまいものはないな!」と言って食う。幸せなことである。さらに余計なことには「こんなうまいもののことを知らずに死んでいく奴らがいるんだよな、かわいそうだなあ!」と言ってさらに酒を進めたり、クリームで口元をよごしたりする。

こんなものを席の隣で聞いた日には酒が不味くなりそうなものなので言わぬが花だと思うのだが、どうにも自分で言うほどこの親父は育ちがよろしくない。寿司屋のカウンターで隣の席からタバコを吹きかけられているようなとものなのに、自分ではそれを自覚しない。

何故そう言う余計なことを言ってしまうのか。そう、親父は食べログであるとか情報誌に踊らされたりはしないが、情報というものの上ではやはり踊ってしまう悲しい、人間として当然の人種にすぎなかった。

自分が食べているものがうまいのかどうかに自信が持てない。だから周りの食事の価値を貶め、比較として自分がうまいものを食べているように自己暗示をかけているというわけだ。

なるほど、うまいものを知るためには比較が必要なのであり、しかし相反することながら無知さも必要なのである。

また同時に若かりし頃の親父からはこんな言葉も預かっている

「高くてうまいのは当たり前」

当たり前なのである。安くてうまくなければそこに価値はない。よくわかるはなしである。さらに言えばある程度の対価を支払って「おいしくない」ことなど認めたくないという親父の精神性が見て取れるともいえる。

 この哲学のおかげで、我々親子はカウンターの寿司でも、スーパーのパック寿司でもどちらもおいしくいただくことができるというわけだ。ありがとう、伝承された瑣末な庶民性とプライド! 安っぽい美食哲学とノウハウ! 残念ながら俺が末代だ! 末代だ定信!

 

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さて最近たべたうまいはずなのにそんな大したことないものの話をしていこうと思う。

フルーツパフェである。

ここ数年パフェがすきなので、おっさん一人でも機会があればたべてしまう。ただ、うまいな! と思ったところは最近行くといつも予約してねーの? おめーの席ねーから! というような態度で曲げなく断られる。もしかして席があるにもかかわらずおっさんだから拒否されているのかもしれないという疑心暗鬼に陥りモンブランを買って帰るという悪循環に陥るのだ。

さてこの季節の梨とマスカットのフルーツパフェである。ゼリーとアイスが中に入っていて素朴な果物のみずみずしさが詰まっておりおいしい。剥いたみかんに焦げ目割り付けて添えるというビジュアルもなかなか憎い。シャリっとした和梨とつるりとしたマスカットが合わさり天国感も甚だしい。最高! 最高? 本当に最高なのか? 単品で果物を食べるのとそんなに違くない? この値段で!? という気持ちが庶民の底辺労働者の心から湧き出てきてしまう。

いやしい。本当に卑しいことだ。パティシエが精魂込めて目の前でこさえたまちのフルーツパフェがまずいわけがない。いやまずいとか言ってないでしょお前人の話聞いてた? そうやって言ってないことを捏造して拡散するのがインターネットに棲む俗悪な獣の一番悪いところだよ。二番目は口が臭いところだ。そう、このパフェは工夫がない割に高いような気がする。いや正しいフルーツパフェは高いんだけど、正直物足りなかった。いやでもお前それはね、そういうものだよ。なにがコストパフォーマンスだよ、パフォーマンスの話をするならね、親御さんが今までお前にかけた教育コストの話を。うるせえな! 親は関係ないだろ親は! お前からパフェにしてやろうか!! お前が汚点を残す前にパーフェクトな人生をここで完成させてやる! 感謝しな!(白い鳩がガンガン飛び立ち、無数の銃声が響く。食べかけのパフェグラスに差されたロングスプーンに銃弾がかすめ、カラカラと音を立て、揺らめいたところに銃弾が命中した。散乱する。コンクリートにたたきつけた屋台の飴細工のように無残に散乱する。溶けたバニラアイスが血だまりに押し流されて赤く染まっていく)