ナントモハヤ

明日のぼくを殺せ。昨日のきみを救うために。

病気の時に見る夢と病人の話

親父から電動自転車を駅前に止めてあるので違法駐輪で回収される前に持って帰ってほしいというメールが来たので「かぎは?」と返したところ「俺が持っている」と返ってきた。もはや70が見えてくると言動行動がフリーダムであらせられる。朝「なんだ貴様のその腹は〜! たるんどるぞ水島上等兵! 貴様のその醜い腹が凹むように不意打ちで仕事を言いつけてやるから覚悟するように! 俺は親の顔がみたいので顔を洗ってくる! ガハハ!」などとのたくってでかけた直後であったので、俺がクソ重いバッテリーを抱えた自転車を前輪転がして家まで運んでいるのもまた親父の策略のうちということになりそうだ。とはいえ結局鯨飲した親父は自分ではろくに食べないドーナツを大量に買って帰ってくるし、休みの日は炭水化物が主役の料理をバンバン作るし、この日も例に漏れずそうだった。永遠にこの腹が凹むことはないかもしれない。

ただ腹が出ていて困ることがどれくらいあるかというと。ユニクロの店先のジーンズが入らない。仰向けに寝ると腹が重くて苦しく、うつ伏せになると脂肪が内臓を圧迫して死ぬのでどうしても横向きに寝ることになる。夏場は腹と胸肉の間にできた溝にあせもができる。などの弊害があるがいまのところ血圧は正常だし、尿酸値と悪玉コレステロールがちょっとヤバめになってきたくらいだ。毎日死にそうなツイートをしているが体はわりかし健康な様相を呈しているのである。

一応は文学青年であったから、やはり結核、肺病というものに憧れたりしているわけだ。そう、日本の26万人いるという文学ワナビ全てが肺病で片手にスキットルの酒を飲み、和室で猫背になりながら半纏をせおいつつ原稿用紙に向かい咳をする緩やかな死にみんな憧れて生きている。最近唾液が気管に入ってものすごく苦しいことが増えた。死ぬときは誤嚥性肺炎だろうが、これはどうにも格好がつかない。結核ならずとも脊椎カリエスとかそういう奴になりたい。しかし不思議なのは、病気の時に文章書く元気、ある? ということ。元気というかろくに病気なわけでなくともほぼ何も書かずにこの数年過ごすことができたし、具合が悪いとか暇でなにか書こうと思ってもいつもだるいが、病気のだるさではなにもかける気はしない、文字を見るのも考えるのも嫌になる。そして思う、誰が肺を病んだときに詩や小説を好き好んで書くというのか?

病もそうなら酒もそうである。そのわりに酒が入らないと書けないみたいな話はよく聞く。酒が入ることで枷から解き放たれ筆が滑るように名文が量産されるというようなことは俺にはない。ただ眠くてなにもできなくなって寝るというのはどうやら俺だけの話であるらしい。

だが酒というのが眠くなるよりも先に酩酊をもたらすものであるならば、話はわかる。俺も高熱の時に必ず見る夢というのを書き残したいという気持ちがとてつもなくある。高熱の時に決まって出てくるような人物、情景、トリップ感、酒でもそれを見る人は見れるのかもしれん。それを描写できたり、あの狂った感覚をそのまま文章で表現せしめることができるならどんなにかイキイキとおかしくなった文章を書けることだろう。

月面のような高矢の如し風景で柔らかくなったアルミホイルでできた滑らかにしなる岩をじゃがいものばけものみたいな風体になったおれが撫でている、その岩のようなものを撫でるたびにフワフワとした嘔吐感がもたらされ光が水のように流れていく。いつも決まってこのような情景が流れ「ああ、これはいつも病の時に見る夢だ」と思うのだ。おそらくこの夢はいつもどこからか続いできているのだけど、この「見たことがある情景」で夢の中の意識たる俺が我に返る。そうしたが最後、サイケデリックでエキセントリックな楽しい夢は終わるか、今意識のどこかに残っている現実と混ざりただの悪夢へと変質していく。

仕切りに幼少の時に熱を出したが、このシーンの前、そして正しいこのシーンの後につづく「何か」。そこに無意識であるとか人間の生身では到達することのできない領域の手がかりがその夢の中にあると思っていた。しかしそれを意識すればするほど、そのシーン以外の描写は希薄になり、やがて熱を出してもその夢を見なくなってしまった。正しき領域に至るための道しるべは失われてしまったのだ。熱に浮かされた少年の妄想は、高熱によって焼き付いて、今でもたまにこのシーンだけがフラッシュバックする。このフラッシュバックは具合が悪い気味の時によく起こるのでこれが起きると風邪に気をつけ始めることができる。そう考えるとなかなか便利な異能であるかもしれない。健康になりたい。

この病気のときの悪夢の感触似た、明確に記憶に残るような明晰な夢をたまに見ることがある。幼い俺と妹が何かから逃げていく旅の夢はよく見るし、さらによく見るのは俺が今まで裏切り傷つけてきた人たちが一つの教室にいて普通に日常生活をしている類の夢。淫夢は最近見ないけど、淫夢はエロかったことだけ覚えていることが多くないですか。ディテールやあらすじを喋れたりはしないでしょ。

全然話は変わるが思いついたので言うと、この「淫夢」という単語がインターネットでは「みんなで笑ってネタにしていいゲイビデオ」ということになっているのが本当に嫌で嫌で嫌で嫌でしょうがない。あのノリが楽しいと思えないし、中身に人があるものをまずバカにする文脈が小中学のイジメの構造そのもので吐き気を催す。だがこの病的な忌避感をどうにも共有できず言語化できぬまま数年が経ち、もはや、元から離れてしまってインターネットジャーゴンとして定着した文脈に関しては脱臭されてきてそうでもなくなってしまったのがそれはそれでなんともまた気持ち悪いなと思っている。この時期、双璧をなす気持ち悪さの弁護士笑うネタと合わせてもほんとつらい。たまたまこのニコニコあたりの文化が終わっていく中(別に終わってはいないと思うが、サブカルチャーのトップラインを恒常的に生み出す訳ではなくなってきた凋落の時期)の沈みゆく船から漂う混沌と腐臭みたいなものが耐えられなかったのか。単純に俺がけったいな生き物石を投げて遊ぶやつらを許容できない多感な時期だっただけかもしれない。多感な時期のせいにすれば全てが丸く収まる。

夢の話なのでもやもやしたまま終わる。